3-7

 診察を終えてから薬を受け取った後、哀の通う大学のキャンパス内へとゆっくりと歩いた。少し歩くだけで額から頬にかけて汗が流れる。太陽の熱がじりじりと地面を焦がしているようだ。
 いつものように構内にある書店でいくつかの本を流し読みをし、廊下へと出た。腕時計は十三時を示し、少しずつキャンパス内が騒がしくなっていった。そろそろ午前の講義が終わった頃なのだろう。

「あら、工藤君?」

 ぼんやりと廊下の窓から中庭を眺めていると、声がかかり、振り返るとTシャツにチノパン履いた格好の哀が立っていた。

「灰原、お疲れ」
「びっくりした。ああ、今日は受診の日だったわね。工藤君もお疲れ様」

 当然のように新一の横に立ち、哀は微笑む。不意を突かれ、新一は慌てて言葉を探す。

「白衣……」
「え?」
「今日は、白衣を持ってないんだな」

 違う、本当はこんな事を聞きたいのではない。彼女が昨日帰ってこなかった事について問いただしたくても、切り出し方が分からない。今日は哀を呼ぶ男の存在が近くにない事に、ただそれだけに新一は安堵していた。

「白衣? 午前はただの講義だったから、白衣は研究室に置きっぱなしだけど……」

 不思議そうに首をかしげる哀に、新一はふっと息をつく。昨日の朝と服装が違うというのも、予備の服を研究室にでも置いていたのかもしれない。自分に彼女を問い詰める権利はない。むしろ解放しなければならないと思っているのに、どうしてこんなにも胸を締め付けられるのだろう。
 開いた窓から熱い風が吹き込み、哀の肩までの髪の毛をふわふわと揺らす。その毛先に触れる瞬間が好きだ。それだけではない。眠そうな彼女を起こす瞬間も、朝のコーヒーを渡す瞬間も、遅く帰ってきた彼女に声をかける瞬間も、新一が眠っている時には静かにベッドの中に入ってくる瞬間も、どうしようもなく好きだ。

「工藤君? 大丈夫?」

 顔を上げた哀が腕を伸ばし、新一の頬に触れた。多くはないとはいえ、廊下には学生がちらほらと歩いている。周囲の視線もお構いなしの哀に、新一は小さく咳払いをして、哀の肩に触れ、少しだけ距離を置いた。

「……悪い、大丈夫だ」

 かすれた声で答えると、一瞬眉を潜めた哀は、何事もなかったように微笑んだ。

「昨日は悪かったわ。今日はちゃんと帰るから、よろしくね」

 宣言通り、午後九時頃に哀は帰宅した。久しぶりに一緒にとった夕食での話によると、昨日のメールにあった通り、哀は大学で研究をしていた事で帰れなくなったという。
 新一は今日の病院での出来事を話した。いつもの消化器内科ではなく、血液免疫内科に移された事を話すと、哀は目を大きく見開いた。その表情に、新一は一つの確信を得る。

「灰原、おまえ何か知っているな?」
「何かって、何を?」
「しらばっくれるな。俺の体、肝臓だけじゃなくて免疫系もやられているんだろ?」

 哀には気まぐれに検査値を渡していたので、彼女が何も知らないはずがない。自己免疫疾患を発症すれば、今度こそ治療は困難になるだろう。今でも内臓を守る薬を飲み続けているのに、これ以上肝臓や腎臓に負担となる服薬は望めないと、新一も分かっていた。
 思わず詰め寄ると、哀はうつむく。癖のかかった前髪のせいで、彼女の表情を読めない。だけど、言い方を間違ってしまったのだと新一は頭をがりがりと掻く。

「灰原……。俺の言い方が悪かった」

 リビングの畳の上で向かい合う格好で、新一は哀の頭を撫でる。その感覚にほっとしていると、哀がゆっくりと顔をあげた。水分の多い瞳が、意思をもってまっすぐに新一を見つめる。

「ごめんなさい……」

 いつかに聞いた言葉だった。それもきっと一度や二度じゃない。彼女がここにいる理由。彼女に触れた手のひらが急激に冷えていくようだった。

「なんで謝るんだ?」
「あなたがこうなったのは、私のせいだもの……」

 発された哀の言葉を飲み込むようにして、新一は彼女の唇を唇で塞いだ。おまえのせいだ、と彼女を責めた日の事を新一は忘れていない。だけど、本当はそんな事を思っていない。どうしようもなく他責の感情に捕らわれた時に、八つ当たりで哀に押し付けただけで、本当はそうではなかった。最初から分かっていたのに。
 過去を憎むという事がどういう事か、新一は知っている。何かを否定しなければならないほどの状態であっても、自分が自分である為に守るべきものがある事も。

「おまえのせいじゃないよ」

 キスの合間に新一がつぶやくと、哀の瞳からほろりと涙がこぼれた。揺れる彼女の瞳の中に、迷いや焦りが生じるのを新一は黙って見ていた。それはやがて葛藤となり、否定となる。新一の言葉はきっと信じてもらえない。
 だから、彼女の細い体を抱きしめる。しばらく新一の胸に顔を押し付けるようにして泣いた彼女は、やがて腕を伸ばして新一の頭を寄せるようにキスをせがんだ。
 こんなにも長い時間口付けを交わすのは久しぶりだった。恋人でもないのに、この雰囲気を新一は知っている。哀の体をベッドに倒す。哀の手が新一のシャツの下へと潜り込む。この期に及んでこの先を迷っていると、哀が憂いを帯びた表情で新一を見上げた。

「するんでしょ?」

 何を、なんて野暮の事は言わない。シーツに哀の髪の毛が広がる。彼女の挑発じみた言葉に、新一はキスで返事をする。彼女に誘導されるようにシャツを脱ぐと、肩がひんやりと冷えた。クーラーが効きすぎているのかもしれない。彼女の着るシャツのボタンを一つ一つ外しながら、彼女を冷やさないようにしなければならないと思う。
 哀に触れるたびに心臓が痛くなる。どうしようもなく多幸感に包まれる。それを全身で感じ始めたのはいつだっただろうか。
 冷えた空気の中、押し進んだ彼女の中は、きっと外の熱気よりも熱い場所だった。感じる鼓動は自分のものか、彼女のものか、分からない。血液を運ぶ音。心臓が働く音。これは、命の音だ。すべてが混ざり合って、ぐちゃぐちゃに溶けてしまった先には、何が待っているのだろう。

「工藤君……」

 哀が新一に手を伸ばす。新一の瞳を捕らえる、慈しみを含んだ哀の微笑みは、いつだって新一を救う。初めて哀がこの部屋に踏み込んだあの夏の日から、ずっと。

「未来はないって言ったけれど、私があなたの未来を作るわ」

 乱れる息を合間縫うように、一つ一つの言葉を噛みしめるように哀はつぶやいた。
 未来なんてどうでもいい。新一は彼女の中を泳ぐように動きながら、窒息しそうなほど長いキスを落としながら、思う。許されなくていい。明るい未来なんていらない。今この瞬間をこんなにも幸せだと思ってしまう事すら罪悪感で胸が張り裂けそうなのに、新一は自分の首にしがみつく哀の呼吸ごと奪うようにに口付ける。
 どんな瞬間を切り取ったものよりもずっと、彼女をとても好きだと思った。