3-6

 浅い眠りに入り込んだと思ったら、ベッドの中の冷たさに目を覚ます事を繰り返した。この感覚は久しぶりだった。ベッドの上でのっそりと起き上がる。クーラーはタイマーによってとっくに電源を落とされていて、背中に汗が流れた。
 ベッドから降りて、キッチンで水を飲む。立てかけられた二本の歯ブラシの横にある、置時計は午前四時を示していた。流し台の上にある酸きガラスの窓からはほんのりと光が漏れ始めていた。静寂の中に灯る光は、どこか悲しみを放っている。人が自死に走りやすい時間帯は夜明け前だという。
 新一はグラスに注いだ冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを飲み込み、窓の外にある不安定な光を見つめる。哀のいない朝の空気は、耳鳴りを誘うほどのつんとした静けさに満ちていた。



 その日は月に一度の受診の日だった。階段を下りた先で、毎朝のように箒を手に持つ大家に挨拶をし、バスで大学病院へと向かった。

「工藤さん、今日は血液免疫内科での受診となります」

 診察券を専用の機械に入れた後、いつもの消化器内科に向かうと、事務服を着たスタッフに言われ、新一は首をかしげる。

「あれ……、いつもと同じ診察じゃなんですか?」
「担当医からの伝言です」

 広い病院内、新一は案内された通り、初めて血液免疫内科へと足を踏み入れた。階数が変わるだけで、集まっている患者の雰囲気が変わる。比較的若い患者が集まる中で、新一は問診票をクラークに提出すると、ほどなくして診察室に案内された。

「カルテを見させてもらったよ。自覚症状が発現したのは七年前、君が二十三歳の時だったかな? それまでも特に飲酒習慣もなかった君だけど、原因はあるのかな?」

 挨拶もそこそこに、背もたれ付きの椅子を回転させた医師が、パソコンのキーボードに右手を乗せたまま新一に尋ねた。黒髪よりも白髪のほうが多いが、年齢はそういっていなさそうだ、と新一は、横田と名乗った初対面である医師を観察する。

「原因は……、分からないです」
「例えば、変な薬を飲んでいたとか」

 確信をついた横田の質問に、新一は視線を外す。これでは嘘をついているようなものだと思うが、そもそも嘘をつくのは苦手な方だ。ここで、例えば模範解答である「様々な細胞をアポトシースさせる事で身体を幼児化させたアポトキシン4869を服用した後、数か月に渡ってそれらの解毒剤を服用した」とは答えられるはずがない。だからこそ、当初は病院に行くのにも躊躇ったし、哀に知らせるわけにはいかないと固く思ったはずだった。

「君がベンゾジアゼピン系の睡眠薬を多量服用したのは、その八か月後の事だね」

 確認を込めた淡々とした声に、新一は小さくうなずく。横田がだらしなく椅子の背もたれによりかかった事で、キャスターが小さく軋んだ。

「名高い工藤新一君が自殺未遂だなんて、よくもまぁ、マスコミに嗅ぎつかれる事もなく済んだなぁ」
「色々な方のご協力があったと、聞いています」

 診察室の奥には小さな窓にブラインドがかかっていて、その隙間から青空が見えた。この近くにヒマワリは咲いているだろうか。新一は少ない記憶を手繰り寄せる。脳裏に残るのはいつも同じ景色だ。

「だけど、俺はその頃の事を、あまり覚えていないんです」

 新一がつぶやくと、横田はくしゃりと目元に皺を寄せ、まるで殺人犯の常套句のようだ、と笑った。