3-2

 哀が再びこの部屋で過ごすようになったのは、彼女が高校に進学をした三年前の事だった。まだ寒さの残る三月の終わりの夕方、哀は新一に相談もなく大きな荷物を持って部屋に上がり込んだ。

「今日からここで暮らすわ」

 玄関兼キッチンで持ってきたキャリーケースを開く哀を見下ろしながら、新一は眉をしかめる。フローリングの床にしゃがみこんだ彼女の後ろ姿、長さの変わらない髪の毛から見えるうなじにどきりとした。
 あの夏の日々から半年が経っていた。

「灰原、おまえ……」

 喉から出た声は思いのほかかすれ、新一は咳払いをする。哀がしゃがんだままゆっくりと振り返るのを確認してから、新一はもう一度口を開く。

「博士には、どう言ってきたんだ……?」

 違う、聞きたい事はそうじゃない。新一の的外れな質問に、哀はきょとんとした目を向け、立ち上がった。狭いキッチン内で、靴も履いていない状態で哀と並ぶ。彼女の身長はまた少しだけ伸びたかもしれない。

「関西の高校に進学するからって伝えたわ」
「俺の事、話したのか」
「……あなたの居場所を勝手に話したのは悪かったけれど、あなたも知っている通り博士は他言しないわよ」
「そうじゃなくて!」

 思わず大きな声を出た。新一のすぐ目の前で、哀の肩がびくりと震えた。距離が一歩分、遠くなる。

「俺がおまえに、何をしたか忘れたわけじゃねーよな?」

 もうすぐ四月だといっても、まだ冬の姿は完全には消えていない。昼間に開けた窓からは冷たい風が差し込む。

「忘れられるわけ、ないじゃない」

 新一の声に負けじと、哀はまっすぐに新一を見上げる。

「だからこそ、あなたに私を拒否する権利などないわ」

 向けられた視線は、半年前のものよりもずっと深く、ギリギリのバランスをもって、揺れていた。全ては自分のせいだった。
 新一は動揺を隠せないまま、頭をがりがりと掻く。そろそろ散髪にいかなければならないと思っていた髪の毛が、鬱陶しく指に絡まった。
 これ以上の反論はない事を悟ったのか、再びその場で荷物をほどいてく哀の様子を見下ろしながら、新一は唇を噛む。これ以上はだめだ、と頭の中で何度も唱える。哀が元の身体に戻らなかった理由。今度こそ、彼女は何にも縛られずに生きるべきだったのに。
 しかし、哀の言う通り、新一に発言権はないのだろう。彼女の頑固さを、新一は知っているつもりだ。

「灰原」

 消化不良の感情を喉の奥に押し込めながら、新一も哀の隣にしゃがみこんだ。

「手伝うよ。何かやる事あるか? あー、おまえがここに住むなら買い出しとか……」

 新一の言葉が途切れる。哀の唇に塞がれたのだった。
 またね、と彼女がこの部屋を去る時に残したキスよりも深い口付けに、新一は今度こそ目を見開く。頬に触れられた哀の指先が冷たくて、なおさら唇の熱さを感じた。

「は……い、ばら……?」

 混乱を見せる新一に、満足したかのように哀は声もなく笑った。
 その夜、当然の流れのようにセックスをして眠った。彼女と身体を重ねたのは二度目だった。何をどう考えても、最初に仕掛けたのは哀が先で、失った何かを埋めるように、何かを取り繕うように、彼女は新一を抱きしめ、キスをせがみ、時にはキスを落とし、新一を受け入れた。まるで夏の十日間の延長が始まるとでもいうように。