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 アパートの階段を降りると、見覚えのある女性が箒で敷地内を掃いていた。

「あら、門野さん」

 名前を呼ばれ、それが自分の偽名であることを思い出し、新一は顔をあげた。

「おはようございます」
「おはよう、いい天気やねぇ。今日は外でお仕事?」
「まぁ……」

 この地の方言で話す彼女はこのアパートの大家で、新一が引越してきた当初はどう見ても会社員には見えない新一を探っていたのかもしれないが、今ではそれなりに気にかけてくれている。それも三年前、親戚だと名乗る哀が同居し始めてからは、警戒も解けたようだった。
 狭い路地の前には、ランドセルを背負った小学生達が走って駆けて行った。唐突に郷愁めいた感覚に襲われ、それを誤魔化すように新一は大家に挨拶をし、大通りにあるバス停へと歩いた。
 限りなく澄んだ青色が空を覆う。今日もいい天気になりそうだ。



 大型連休が終わるやいなや、日本人の多くは機械的に再稼働を始める。医療機関も例に漏れず、もちろん入院患者などに対しては二十四時間対応を行っているはずだが、外来受付の待合室はうんざりするほど混んでいた。当然、予約時間など守られるわけもない。そういえば先月、薬局の待合室に設置されている週刊誌の記事で、医療従事者の過労働についての特集を読んだ事を新一は思い出す。
 新一が受診している消化器内科のクラーク前で、予約時間よりさらに二時間が経った頃、ようやく名前を呼ばれた新一はおもむろに立ち上がり、看護師に案内されるまま診察室に入り、ものの五分もせずに診察を終えた。担当医の様子は相変わらず忙しそうで、新一は改めて週刊誌の記事を思い出す。胸につかえるような引っ掛かりを覚えたが、気づかなかったふりをしてそのまま総合受付へと向かう。いつものように会計をして処方箋を手に持ち、外へと出た。少々空腹感を覚える。もう正午をまわっていた。
 薬を受け取り、新一はすぐ近くにある大学へと向かう。大学も昼休み中なのか、学生達がキャンパス内にあるベンチや芝生の上で弁当を食べたり寝転がったりと自由気ままに過ごしているようだった。連休によって鈍った何かを、取り戻しているような光景だった。
 この大学内にある書店は専門書を多く取り扱っているので、新一は気に入っていて、病院帰りに気が向けば立ち寄っていた。もともと雑多な知識を吸収する事が好きだったが、ここ数年は特に医学書を好んでいる。まばらにいる学生に混じるように、新一は書店でいくつかの本を立ち読みをし、一冊だけ選んで、会計をして書店を出た。
 そろそろ午後の講義が始まるのか、講義棟の廊下では人々の動きが激しい。医学部や薬学部もあるこのキャンパスには、白衣を持った学生が実習等へと足早に向かっていた。

「灰原さん!」

 男の声が廊下に響いた。思わず廊下の端に寄り目を向けると、トートバッグを肩にかけて他の学生と同じように白衣を持った哀が、白衣を着た黒髪の男に声をかけられていた。新一は身を隠すようにして柱の陰に立ち、二人の様子をうかがう。冷たい壁の感触に、探偵業をした頃の感覚が背中によみがえり、落ち着かない。

「捕まってよかった。先日の件、教授にも話しておいたよ」
「ありがとうございます。助かります」

 他の学生のように浮ついた様子のない男は、大学院生か講師なのだろうか。新一よりもずっと若々しさを持つ男には爽やかさに哀に笑う。

「それならよかったよ。灰原さん、あの……、よかったら、今晩、飯でも……」

 やや緊張した男の声に、新一はぐっと呼吸を止める。新一の心配をよそに、哀は特別愛想を振りまくこともなく、淡々と答えた。

「ごめんなさい。親戚が家で待っているので」

 バスに乗って帰路を辿る。アパートの最寄りのバス停に着いた頃には、下校した小学生たちで歩道が塞がれていた。掻き分けるようにして新一はアパートまで歩く。手に持った本が重い。冷蔵庫にあった食材について思い浮かべ、連休中に哀と買い出しに行ったので今日はスーパーに寄る必要はないと結論にいきつき、新一はそのまままっすぐアパートへと帰った。いつもの錆びた階段をのぼる。ドアを開けて、本をテーブルに置き、そのまま倒れるようにリビングにあるベッドへと潜り込んだ。ひどく疲れていた。
 寝転がってみる視界の先、テレビ台の横には哀が大学で使う教科書や専門書が積み重なっている。白衣の男から夕食の誘いを受けた哀が、すぐさま断っていたという事実に、新一は安堵していた。自分達が一緒に暮らすためのルールは存在しているが、恋人でも何でもない自分達が他の異性と会ってはならない、などという馬鹿げたルールなんてあるはずもない。哀がどう過ごそうと自由だし、哀の未来は哀のものだ。分かっていたはずなのに、冷たい壁に背を預けた身体に走ったものは、焦燥感だった。新一は目を閉じる。帰ってくる哀の為に夕食を準備しなければならないと思うのに、身体が言うことを聞かず、意識が混濁する瞬間を、瞼の裏が映し出していた。
 やがて、玄関のドアが控えめな音を立てて開いた。

「ただいま」

 室内に小さく響く哀の声に、新一は意識を動かす。しかし、眠った身体はそのままだ。

「……工藤君? 寝ているの?」

 ベッドのすぐそばに哀の気配を感じた。横たわる新一の眼鏡を外してくれたようだった。ことりと眼鏡がテーブルに置かれる音が小さく響く。
 そして、わずかに時間を置いた後、頬に冷たい感触が走った。哀の細い指が新一の頬に触れ、唇まで辿るようになぞっていく。

「工藤君……」

 大学構内で聞いた時よりもずっと温度の通った声に、どきりとした。哀の指が新一の唇に触れ、新一は呼吸の仕方を忘れる。昼間は夏日のように暖かかったはずなのに、部屋の中はしんとした冷たさがあった。

「ごめんなさい、工藤君……」

 今にも泣きそうな哀の声に、今すぐに抱きしめたいと思った。動かない身体に、舌打ちすら打てない。ただ、やけにクリアな頭の中で一つの考えが落とされる。彼女がこの部屋で過ごす理由。贖罪以外に、何もあるはずがなかった。