病院内に漂う薬品の匂いを、新一は嫌いではない。月に一度の受診を済ませ、新一は大学病院の待合室のロビーで会計の順番を待つ。
「よぉ、工藤」
新一の座るベンチの隣に、どさりと座り込む姿を見て、新一は大きくため息をついた。
「……服部。おまえ、仕事はどうしたんだよ?」
「会ったばかりなのにつれない事言うなや。元気やったか?」
学生の頃には見ることもなかったスーツ姿の服部平次が、新一の肩をぽんと叩く。
「元気だったら、こんな場所に来たりしない」
「ははっ、確かにおまえの言う通りやな!」
病院とは病人が集まるだけの場所だと思っていた。あながち間違いではないのだが、しかし待合室に悲壮感は漂っていない。そもそも外来患者で今すぐ命にかかわるような人間は少ないだろうし、慢性疾患を患っている患者においては常に症状に苦しめられているとも限らない。ここにいる人間はさまざまだ。きっと都会に身を置く人間と同じように。
やがて新一の持つ引換番号が呼ばれ、新一は服部を放って会計窓口に向かった。代金を払い、処方箋を受け取る。その内容を見て、代わり映えのない文字の羅列にため息をついた。既存している医薬品でどれだけこの体を保つことができるか、新一には分からない。受け取った領収書と一緒に、ショルダーバッグの中にくしゃりと入れ、自動ドアへと歩く。
「あー、やっぱり外は暑いなぁ」
当然の顔をして新一の横を歩く服部に、新一はこめかみを押さえた。
「おまえは毎月毎月懲りねーな」
「そらま、工藤の受診日には外回りの仕事を入れるようにしとるし?」
「ストーカーかよ」
八月はもうすぐ終わるが、近くにある大学のキャンパス内が賑わうのはしばらく先になるだろう。大学生の夏休みが長いという事を、新一を身をもって体験している。最も、探偵業を営んでいたせいでその夏休みを謳歌した青春もないに等しかったのだけど。
鮮やかな青空が頭上を覆う。まぶしい太陽が病院内に植えられた草木を緑色に照らし、キラキラと輝く。それは自分には縁のない光だった。
「それより服部。俺がここにいるって事、誰かに口外したか?」
新一の記憶では、服部は大学を卒業後、刑事になるべく警察官として関西某所を拠点として勤務をまっとうしていたはずだった。しかし、昨年に再会した時には服部は警察官ではなくなっていた。それどころか、警察や探偵からかけ離れた場所で、サラリーマンとして生きていた。
新一の問いに、服部は眉を潜める。
「言うわけないやろ。和葉だって知らん。……何かあったんか?」
「灰原が来た。おまえじゃねーって事は……、小五郎のおっちゃんのわけねーし、赤井さんだな……」
新一の返答に、服部が驚愕した表情で新一に詰め寄る。目の前にある横断歩道の信号が青になったというのに突っ立ったままの新一達に対して、他の通行人が迷惑そうな顔を向けて通り過ぎていく。
「灰原……って、あのちっこいねーちゃんか?」
「ああ……。おまえがまだケーサツにいたら、俺を逮捕できたのにな」
新一がこの場所で暮らしている事を知る人間は少ない。そして新一の行動は、新一の持つスマートフォンによって管理されていた。信号が再び赤に変わる。点滅する青の残像は一瞬にして消え去る。
「何したんや」
「無理やり、やった」
端的に答えた新一に、服部は少なくとも新一に対して向けた事もなかった憎悪の表情を浮かべ、新一を睨んだ。
「最低やぞ」
「わかってる」
哀が東京へと帰宅したのは昨日の出来事だ。昨日で夏休みが終わるのだという。最近の中学校は、八月の内から二学期が始まるらしい。
結局、彼女が新一の住む狭いアパートにいたのは十日間だった。彼女と身体をつないだのはあの一度きりで、それ以外は新一の居心地の良さを知っているかのように、新一の負担にならない程度に傍にいた。久しぶりに味わう平穏さに身震いを覚えたほどだ。
どうして彼女がそこまでして新一の傍に寄り添っていたのか、答えはわからずじまいだ。それでも新一は自分の罪を忘れない。クリアになった感情の奥側で、哀を責め立てようとする感情も忘れない。そして、偽りの姿で過ごした日々の事も、忘れない。
「けど、あのねーちゃんは、おまえを見捨てないんやろなぁ……」
新一の隣でしみじみと服部はつぶやく、新一の中から抜け落ちている記憶を、きっと服部は知っている。
病状を自覚したのが二年前の二十三歳の六月、そして工藤邸に赤井秀一が訪ねてきたのはその年の十一月。その後の、二十四歳になった前後の記憶が新一にはない。
服部の言葉に、新一は昨日の出来事を思い出す。新一の部屋で過ごしたことで少々増えた荷物をトートバッグにまとめた哀は、玄関先で新一の首に腕を回し、触れるだけのキスを残して出ていった。また来るわ、という言葉を残して。
目の前の信号が再び青になり、今度こそ新一は横断歩道を渡る。その先にある薬局で薬を受け取らなければならない。
「まぁ、また何かある前に連絡してや」
新一の肩をぽんと叩いてその場を去っていく服部も、ただ生かされているだけの新一を心配しているのだろう。両親と同じように。小五郎や赤井と同じように。
服部の背中を見送った新一は、眼鏡のフレームを指で直し、前へと歩き出した。吹き抜ける風はわずかに秋の気配を漂わせていた。