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 その夜、買ってきた食材で夕食を準備すると、哀は目を丸くした。

「あなたが料理するとは思わなかった」

 ベッドに寄り掛かるように座る彼女は、新一がローテーブルに皿を並べるたびに、同じような言葉を繰り返した。聡明なはずの彼女のその姿は、自分のせいかもしれないと新一は思う。どこか気だるそうな雰囲気を醸し出している哀は、彼女の姿よりも幼く感じ、危ういバランスだけがそこにあった。

「時間あるし、病人だからな」

 哀の目の前に座りながら新一が答えると、哀は複雑な表情を浮かべ、押し黙った。
 手を合わせて食事をし始める。哀と二人きり、向かい合って食事をしている事実が不思議だった。つい先ほどまではこんなに穏やかな感情は双方になかったはずだ。――もっとも、現在の哀も穏やかではないのだろうけれど。
 食事を囲っているからといって、呑気に団らんできるわけもなく、沈黙に耐え切れなくなった新一はそばにあったリモコンでテレビを付けた。午後七時過ぎ。ニュースでは、国内で起こった殺人事件について読み上げられている。

「気になるの?」

 いつの時代も人は過ちを繰り返す。久しぶりに付けたテレビに釘付けになるように画面を見つめていると、目の前で哀がつぶやく。

「え?」
「あなたが事務所を畳んだのも、私のせいなんでしょう」

 問い返した新一に、哀は箸をテーブルに置き、まっすぐ新一を見つめてきた。自分とは違う、濁りのない瞳の中。その中身を知ったのは、きっとずっと前の事だ。
 だから彼女には知られたくなかったのに、どっと後悔が押し寄せてももう遅い。
 十七歳の頃の出来事は今でも鮮明に胸の中で息づいている。高校生探偵としてもてはやされた事も、小さな仮の姿で駆け回っていた事も、新一にとって無駄な事はなかったはずだった。思い描いていたと信じ込んでいた生活が一変してしまった原因。憎しみがなかったとは言い切れない。何かを傷つけずには呼吸をすることすらできなくなる苦しみを、新一はようやく知った気がした。探偵として活動していた頃にも触れていた、悲惨な事件現場、渦巻く絶望、人間の愚かさに重なった瞬間が確かにあった。

「おまえのせいだよ」

 ほろりと言葉がこぼれる。ただでさえ罪悪感に駆られている彼女に対しての追いうちであることを知っていて、あえて新一は言葉を選ぶ。
 おまえのせいではないと安易に言ったところで、彼女の救いになるはずがない。そもそも、先ほど彼女に手荒い行為をしておいて、今さら取り繕うことなど、何もない。
 新一の言葉に、哀は瞬きを数回しただけで、泣くわけでもなく、笑うわけでもなく、ただ新一の中に眠る真実を探っているようだった。その澄んだ瞳の色に、新一は畏怖を覚えながらもほっと息をつき、哀と同じように箸をテーブルに置いた。
 彼女が真実に近づかない事を願う。



 蒸し暑い夜だった。
 胸の奥が焼けるように痛い。自分の咳込みによって、新一は目を覚ました。いくら空咳をしたところで、気管支は痛むばかりで、血の香りは色々な場面を彷彿させる。健康を害することが自殺の原因になることも少なくないという。脳裏に残像がちらちらと映るなか、新一は息苦しさを覚えた。

「……工藤君」

 酸素供給すら上手くできずに咳を続けていると、抱きしめられるようにして背中を撫でられる。これは夢かもしれないと思う。
 こんなに穏やかな場所に自分が身を置いているわけがない。例えば血生臭い殺人現場、例えば行動を制限させるかのように入れられた檻の中。そこが自分の居場所だったのではないか。

「工藤君」

 混沌とした意識の中で名前を呼ばれて、体温を与えられるようにして身体を包み込まれる感覚に、新一は次第に呼吸を取り戻した。そして、現状を知る。たった昨日に灰原哀が訪ねてきた事も、自分の犯した罪も。この苦い痛みこそが現実だ。
 同じベッドの中にいる哀の髪の毛に触れる。ふわりとした触り心地にほっとした。知り合ってから長い時間が経っているというのに、その感触を初めて知った。
 ようやく咳が収まり、呼吸が整ってからもなお、哀は新一を抱きしめ続けていた。新一が再び眠りにつくまで、ずっと。