玄関のチャイムの音がけたたましく鳴り響き、新一はふっと目を覚ました。蘭と別れてから三か月が経とうとしていた十一月。鼓膜に残る呼び鈴の音にめまいを覚えながら、自分の体が慣れたベッドの上に転がっていることを自覚する。ひどく重たい体は、自分のものではないみたいだ。
歯を食いしばるようにして起き上がる。カーテン越しに入ってくる光は朝のものではなく、自分がどのくらい眠っていたのか、新一には思い出せない。
再びチャイムが鳴り響くなか、新一はふらつく足取りで階段を降り、玄関のドアを開けた。
「やぁ、久しぶりだな、ボウヤ」
ドアの前には黒いニット帽を被った見慣れた長身の男が立っていて、新一は思わず生唾を飲み込む。
「……赤井さん」
広い玄関に吹き抜けた風は、すでに冬の匂いを放っていた。
赤井がリビングでくつろいでいる間、新一は自室で着替えを済ませ、キッチンでコーヒーを淹れた。あんなに飲むことが日課になっていたはずのカフェインの香りを嗅ぐのが久しぶりで、不調な状態の消化器官には刺激が強かったようだ。
「想像以上にずいぶんと部屋を綺麗にしているんだな」
コーヒーカップをテーブルに置く新一に対し、赤井はコメディー映画さながら肩をすくめた。
「赤井さんが住んでいた時とは違う?」
「ははっ、結局あの頃も君達に手伝いに来てもらっていたからな」
乾いた笑いを零す赤井を見ながら、新一もその正面のソファーに座る。目の前に座る日本人離れした彫りの深い顔立ちを眺めながら、新一は当時の記憶を反芻させる。
「世良は元気?」
「ああ、相変わらずの無鉄砲ぶりだ」
「メアリーさんも、変わりないのかな」
新一の質問に、赤井はゆっくりとカップを手に取り、コーヒーを口に含んだ。新一をまっすぐに見つめる視線は、時に何かを狙うための武器で、共に戦った日々がずっと昔の事のようだ。
「母も、相変わらず引きこもっているが、こちらが呆れるくらいには元気にしている」
赤井の母親でもあるメアリーについて詳しく聞いたのは、組織を壊滅した後だった。彼女は今も元の身体に戻る選択をしないまま、世良と共に暮らしているという。
「君はあまり元気そうではないな」
赤井の鋭い指摘に、新一は視線を泳がせる。
時計は午後二時を示していた。新一は赤井が訪ねてきた理由を考える。新一が二十歳で設立した探偵事務所を廃業して一か月が経とうとしていた。様々な噂が立っている中で、新一は一人で住んでいたマンションの部屋を引き払い、喧騒から逃れるように工藤邸に引きこもった。
「ずいぶん顔色が悪い。まるでアルコール依存症のようだ」
赤井の言葉に、新一はふっと笑う。
「赤井さん、ケーサツじゃなくて医者にでもなれたんじゃないの」
「茶化すな、こっちは真面目なんだ。病院には行ったんだろう?」
新一の冗談交じりの声に対しても、赤井は真面目な表情を崩さない。探られるような視線から逃れるように、新一はうつむく。部屋を漂うカフェインの香りが気持ち悪い。
赤井の想像通りだった。少なくとも二十歳頃までは健康だったこの体の内部が蝕まれているようだった。仕事がひと段落つき、事務所を畳んだ九月、ようやく受診した病院であれこれと検査を受けた結果、あらゆる数値が悪くなっていた。ひときわ目立っていたのが肝臓だった。沈黙の臓器と呼ばれるだけあり、これまで自覚症状がなかったのもうなずける。いつからこのような状態になっていたのか、この体の持ち主である新一ですら知らないのだ。
恐らく仕事のついでに訪れたのであろう赤井はコーヒー一杯を飲み干してすぐに、また来るよ、と言い残して工藤邸を出て行った。しかし、この日から赤井には会っていない。少なくとも、新一の記憶の中では。
段落
得体の知れない黒い何かが足元を引きずり込んでいくような感覚だった。一度堕ちてしまったらきっともう戻れない。新一がまず手放したものは食欲で、次は時間感覚だった。生きるために必要な栄養補給を忘れ、思いつくままに眠りについた日々を過ごした結果、今日が何月何日か把握できず、カーテンを閉めた部屋にいると時間すら曖昧になった。
他人に会ったのは赤井が最後、それからどのくらいの時間が経ったのか新一には分からなかった。光の見えない海を泳いでいるような感覚から、新一はふっと目を開ける。いつもと変わらない光景が目の前に広がり、カーテン越しに柔らかな冬の日差しが差し込んでいた。どちらが現実か分からない。ひどい頭痛に新一は顔をしかめ、時計に目を向けると午後四時を過ぎていた。窓の外から聞き覚えのある声が聞こえた気がして、新一は痛んだ頭を押さえながら、ゆっくりベッドの上で起き上がり、カーテンに手を伸ばす。
窓から見下ろして見えた二つの人影に、新一は目を見開いた。
「えー? じゃあ哀ちゃんは、クリスマスの予定は何もないの?」
窓越しでもよく聞こえる声は、偽りの姿で過ごしていた頃によく聞いたものとそれほど変わっていないものだった。セーラー服を着た女子中学生が二人、黒髪の少女が茶髪の少女に近づくようにして話す。茶髪の少女の声は、あまり響いて来ない。
ぐっと喉元が締め付けられた。思わず窓を開けようとして、慌ててカーテンを握りしめる。彼女達のマフラー姿と、しんとした部屋の冷たさから、今が冬である事を思い出す。それに連なり、いくつもの事が連鎖して様々な光景が脳裏に浮かんだ。空が暗くなる手前の夕焼けの下、澄んだ冬の空気に滲むアスファルトの匂い、いつかのランドセルの革の感触。
食欲よりも時間感覚よりも、何よりも失ってはいけないものだった。
「はいばら……」
今でも隣の阿笠邸に住む灰原哀の姿を見たのは、久しぶりだった。夕日に照らされた茶髪が淡く輝く。髪の毛一本一本がさらりと冬の風に揺れる。彼女がもう中学生になっていたことに喉元が締め付けられた。
叫びたい衝動をこらえるようにして、張り付いたように新一は窓の外をレース越しに見下ろす。二人の少女がともに阿笠邸に入り、その姿がなくなってもなお、新一はただ呆然と窓の前に立ち続けた。三半規管が機能するのを忘れたように、視界がぐらぐら揺れた。
博士も哀も、新一が工藤邸に潜んでいることを知らないはずだ。誰にも頼るつもりなどなかったのに、手を伸ばしかけてしまいそうな自分に、新一は自嘲した。ぎゅっと握りしめた手のひらが、やり切れなさを背負うように震える。助けてほしい、でもこれは自分の問題だ。双方の気持ちが自分自身を責め立てる。
この状況を、誰よりも哀に知られてはいけなかった。いつからか彼女に会わなくなった日々に対して、新一に未練がなかったといえば嘘になる。しかし、哀は今度こそ自分の人生をまっとうすべきで、その傍に自分の存在があってはならないと新一は思っていた。彼女の中にはきっと今でも罪悪感が眠っている。それらから彼女を救うためにも、哀には会えなかった。どうしても。