2-1



2.ヒマワリの涙(前編)



 血を吐いた。警視庁の個室トイレに閉じこもり、工藤新一は唇をぬぐう。手の甲が赤色で薄く滲み、途端に口の中に鉄分の匂いが沸き上がり、再び吐き気を覚えた。
 洋式便座の蓋を開けたままレバーを下げると、鮮血が渦となって底のない場所へと沈んでいった。ドアを開け、洗面台に両手をつく。吐血についての病状を、読んだことのある医学書からの知識を手繰り寄せる。胃か肺か膵臓か。原因がどこだとしても、そこまで自覚症状のないことに新一は焦っていた。
 そう、これまで自覚症状がなかったのだ。

「工藤君、大丈夫?」

 男子トイレを出ると、なかなか戻らない新一を気遣ったのか、刑事が会議室から廊下に顔を覗かせていた。

「すみません、大丈夫です」

 子供の姿だった頃に培った演技力をもって新一は刑事に微笑み、会議室に置いてあったコーヒーを飲み干した。それでも口の中に残る血の味を感じながら、恋人である毛利蘭との今夜の約束の断る方法を考えながら、新一は窓の外をブラインド越しに眺める。
 まだ六月だというのに、梅雨入りの遅い今年はさんさんと太陽が熱を地面へと降り注ぎ、すでに猛暑の気配を感じさせていた。



 大学在学中に探偵事務所を開設してからそれなりに多忙な日々を送っていたが、このような体調不良に見舞われたのは初めてだった。警視庁での会議中に吐血をしてから、何度かそれを繰り返すこともあった。しかし、病院に行く時間もなく、そしてなんとなく蘭に会うのも躊躇われた。心配性である彼女に気づかれるわけにはいかず、何かと理由をつけて彼女に会うことを拒んだ。
 それでも、完全に蘭と縁を切れるわけもない。

「新一、少し痩せた?」

 二か月後の八月の喫茶店内にて、ようやく会った蘭の鋭い指摘に、新一は苦笑する。まぎれもなく彼女は自分の恋人で、こんなに自分勝手な自分を案じてくれる人間は他にいないと思った。

「ちょっと忙しいだけなんだ」

 新一は二十三歳になっていた。大学を卒業したのはおよそ半年前だというのに、ひどく昔のことのようだ。今年の梅雨は短く、予見された猛暑は現実となって日本列島を襲う日々が続いていた。
 世間は夏休みなのか、喫茶店内は女子高生や子供連れの母親同士の談笑で賑わっている。昔は静かに読書を楽しめたはずのこの店は、SNSに映えるパフェがメニューに載ってから、少々騒がしくなってしまった。それは時間の流れに乗るための、必要な変化だった。
 結局、蘭と会ったのはそれが最後だった。膠着からの出口を求めるように、どこか怠惰にも思えた二人の関係を清算させた。言い出したのは蘭だった。喫茶店からの帰り道の歩道の端で、泣きながら謝罪を続ける彼女の涙を、新一は黙って見ていた。昔はあんなに見たくなかったそれに対して、どんな感情を抱くことが正しいのか、そればかりが脳を支配していた。
 現状に対してやけに冷静でいた。四季など存在しないような場所に建てられたマンションの部屋を片付けながら、新一は静かに考える。忙殺された日々のせいで、何を思い出したいのかすら分からなかった。
 自分の体調に問題なければ。探偵にならなければ。あの時、偽りの姿で生きなければ、彼女の前から姿を消さなければ。様々な仮定が自分の脳裏に浮かび、すべてを消去する。何かを否定してしまったならば、今この時間を失ってしまうことを、新一は知っていた。