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 古いクーラーの音で我に返った。自分の気に入ったシーツの敷かれたベッドマットの上で、哀を組み敷いて、何をしようというのか。
 カラカラとリズムを伴わない音が耳の中で響いた。それは、先ほど自分が投げた錠剤の音だった。哀のトートバッグの中にあったタブレットケースの中身。
 自分が自分でなくなる感覚を知っている。新一は噛みつくように哀の肩に唇を寄せた。甘い香りに輪郭を取り戻していく。
 哀を傷つけたいわけじゃなかった。ただ、これでは何の為に彼女から離れて生きてきたのか、新一には過去を否定する術もない。様々なものから逃げるようにして生きてきた二年、自分で自分を見捨てようとした日もあった。もし、もっと早く彼女に再会していれば、こんな事にはならなかったのだろうか。あの頃、忙しさにかまけていないで定期的に検査を受け続けていれば。そもそも元の身体に戻る事を強く願わなければ。
 ――今頃、違う未来を手に入れていたとでもいうのだろうか。

「……工藤君?」

 頬に冷たい温度が触れる。哀の手のひらだった。
 仮定ばかりを並べて何かを憎めたらよかった。過去を否定する事の意味を、新一は知っていたはずなのに。
 この地へとやってきた経緯について、自分自身の事だというのに記憶があいまいだった。そこには複雑な事情が絡み合っている事だけ知らされているが、名医のいる大学病院に通院することを条件に、今度こそ身を隠すように新一がこのアパートの部屋を借りてからもうすぐ一年になる。
 自分を囲う感情から逃げるように、孤独を探しながら生きることを選んだはずだったのに。
 ベッドに横たわった哀の翡翠の瞳が新一をとらえる。警戒心をむき出しにしていた先ほどとは違う、慈しみに包まれた感覚に、新一は安堵し、哀を抱きしめる。衝動的に泣き出しそうになるのを無理やり押し込めた。ここで泣いていいわけがない事を、理性のどこかで知っていたから。



 久しぶりに浴びた外の風には、残暑とは思えない蒸し暑さが立ち込められていた。数日ぶりに手に持ったスマートフォンの日付を見て、新一は目を見張る。相変わらず時間間隔には鈍いままだった。
 近所にある食品売場をメインとしたワンフロアのスーパーへと入る。ガラス張りの壁の前には自転車が隙間を埋めるようにして並んでいる。いつもの光景だ。
 自動ドアの中に入った瞬間、冷気が全身を襲った。新一に背を向けて眠っていた哀の姿が浮かび、ぐっと唇を噛みしめて新一は買い物かごを手に取り、思いついたままに商品をかごに放り込む。レジに並んで購入したスポーツ飲料水や野菜をビニル袋に詰め込み、再び外に出る。冷房の効きすぎていた店内から途端にむっと湿気が漂う。
 歩道の隅で井戸端会議を始めている主婦の声、所狭しと歩道横を走り抜ける自転車のブレーキ音、少し遠くから聞こえる大通りを走るバスのエンジン音、やたらと電柱に群がる雀の鳴き声。様々な音がやけにクリアに聞こえ、新一は空を仰ぐように顔を上げた。午後六時半。強い西日が人々や建物の影を作る。
 ひゅっと湿った空気が肺に入り込み、新一は咳き込んだ。いまだに咳をするたびに、口の中に広がる血の味を思い出す。混乱していた頭の中が整理されていく瞬間は、推理をすることで真実を見つけた時に似ていた。しかし、そこに快感はない。
 新一は歩く足を速め、帰路をたどる。ビニル袋を持った右手が汗でにじんだ。秋がすぐそこにやって来ているとしても、西日の威力は偉大だ。
 サンダルを履いた足で錆びの目立つ階段を上がり、玄関のドアを開く。

「……何おまえ、帰んの?」

 重たいドアを開けたすぐ先で、片手にトートバッグを持ったまま、脱ぎ捨ててあったスニーカーを履き、今すぐにでも部屋を出ようとしている哀に出会う。当然だった。彼女にした行為を、新一は忘れていない。

 ――どうすれば、あなたは満足するの

 今になって鼓膜の中で彼女の声が響く。答えは簡単だった。本当は暴かれたくなかった。知られたくなかった。だから身を隠すようにしてこの場所で過ごしてきたというのに、おぼろげな記憶の中でも、あの冬の日を鮮明に思い出す。工藤邸の二階で潜むように暮らした窓の外、見ろした先にあった哀の姿に、救いを願ってしまった。
 キッチンのフローリングの床には、錠剤がいくつも転がっている。足元が心許ないのは、最も大きな罪を犯したという事実が重くのしかかっているからかもしれない。

「じゃあ、今日泊めてくれるというの?」

 震えながらも挑発的に言葉を発した彼女に、新一は安堵を覚える。ああ、そうか、と自分自身に納得し、絶望した。孤独を選んでいたはずなのに、彼女を求めていた事実を、ようやく飲み込んだ。
 新一は誰よりも哀に会いたかったのだ。