新一は耳を疑った。
いつも表情を動かす事のなかった哀の、泣き笑いのような表情に、鼓動が早まる。
「え……?」
予想もしない戸惑いが冷たいアスファルトへと落ちる。哀は肩をすくめ、ゆっくりと立ち上がった。つられて新一も立ち上がる。子供から見える世界から、大人の視界へと戻った。
手を取り合ったまま、哀がつぶやく。
「あなたは江戸川君でもあって工藤君でもあるのよ。止まった時間を戻してくれた。好きになるなって言うほうが無理だわ」
江戸川コナンは彼女のこんな表情を知っていただろうか。
新一は哀の白い頬に触れる。外気に晒されて少し乾燥してとても冷たい。温度を分け与えるように手の平でなぞる。彼女の髪の毛に触れて、それを耳にかける。
心の中に沸き上がった禍々しい感情が消え、代わりに溢れるほどの想いが身体中を駆け巡って胸を熱くするのに、それは砂のようにさらさらと喉元を通り過ぎ、言葉にならない。
だから彼女の唇に口づけを落とした。二秒間、触れるだけのキスをして顔を離す。まっすぐに見上げて来る哀の視線に、新一はふっと笑う。
「おまえとのキス、初めてって感じがしないな」
残る唇の感触を反芻しながら言うと、
「奇遇ね。私もそう思うわ」
そう答えた哀も小さく笑った。
記憶を失って初めて出会った頃の彼女からは想像もできなかったこの状況に、頭がくらくらする。あの頃哀が怖がっていたものはなんだっただろうか。いつから新一を見つめる彼女の瞳から怯えの色がなくなっていたのだろう。
守りたいと一言で言っても、何をどうすれば彼女にとって最善なのか、新一には分からない。記憶は戻らないままだし、臆病を簡単に克服できるとも思えない。
「さっきはごめん」
工藤邸の門を開けながら、今更罰が悪くなって新一が言うと、哀が首をかしげた。
「光彦とおまえが二人で勉強していたのかと勘違いした。ただのヤキモチだった」
「あなたのそういう子供っぽいところ、昔と変わってないのね」
それは初めて哀が発した江戸川コナンという人物だった。
多くの人から江戸川コナンを聞き、新一は他人事のように思っていた。自分の中に眠るヒーロー像に嫌気がさすこともあった。コナンも昔の新一と同じで、正義感を持って強くあろうとしたのだろう。でも人には見せられない弱さがあった。哀だけが知っている。それだけで、新一は江戸川コナンというもう一人の自分を受け入れられると思った。
そうだ、新一は探偵だからこそ、無知を恐れていたのだ。
彼女の手を取ったまま、新一は工藤邸に入る。
「灰原、話をしよう」
彼女を傷つけない為に逃げる事と彼女を守るという事は別物だと知った。真実から逃げない方法で彼女に寄り添う事はできる。真実に晒された時、傷を負った彼女の手を取り、抱きしめる事はできる。ずっと一人で戦ってきた彼女の傍にいたかった。
灰原哀という少女にようやく近付けたのだ。
世間は二月となり、街じゅうが甘いバレンタインモードとなった。
約束の日曜日の夕方、新一が阿笠邸のチャイムを鳴らすと、中から顔を出したのは歩美だった。
「こんにちは、新一さん! みんな待ってたよ!」
阿笠邸がチョコレート工場になってしまったのではないかと思うほど甘ったるい匂いが漂う。新一は靴を脱いで、慣れた足取りでリビングに入る。ソファーでは光彦と元太が最近流行りのゲームをしていた。
「あ、新一さん。こんにちは」
「遅せーぞ!」
「悪い悪い、仕事が終わらなくてさ」
コートを脱ぎながら、新一は光彦の隣に座る。光彦がちらりと新一を向いた。昔は大人と子供程の身長差があったのに、今では頭一つ分もない。彼らはこれからもどんどん大きくなっていくのだろう。
「この前は悪かったよ」
新一が素直に謝ると、光彦は首を横に振った。
「いいえ。余裕のない新一さんを見る事ができて、新鮮で興味深かったですよ」
「…おまえ、可愛くねーな。ビミョーに灰原に影響されやがって」
「灰原さんだけじゃないです。コナン君にも影響されていますよ」
まっすぐな視線を寄越す光彦に、新一は動揺する。事情を知っているのは哀だけで、少年探偵団はただの子供のはずだ。でも光彦は敏い子供だった。いや、光彦だけじゃない。元太も歩美も普通の子供とは事件に遭遇している場数が違う。何より目の前で同級生のコナンが撃たれ気を失っても、その場所が洞窟内だというのに追手をかわしながら出口を見つけたという。
想像でしかないけれど、きっとコナンは子供の世界に引きずり込まれ、戸惑っていたに違いない。それを救ったのはきっと少年探偵団の存在だ。それは子供の頃の新一が持たなかったものだ。
「コナンの話、聞かせてよ」
新一が言うと、光彦はぱちくりと目を見開き、元太は持っていたゲーム機を置いて顔を新一に向けた。そして途端に二人は笑顔になり、彼らの中に温められた思い出をゆっくりと語り出した。
江戸川コナンを禁句だと思っていたのは自分だけだったかもしれない。江戸川コナンはこんなにも愛されていた。
「何の話してるのー?」
チョコレートケーキを持った歩美が哀と共にリビングにやって来て、部屋の奥で研究していた博士もやって来る。
「博士も食べられるような甘味料を使ったのよ。感謝しなさい」
哀が得意げに言い放ち、昔より皺の増えた博士がさらに顔をくしゃりとさせて笑った。
いつか彼らに真実を話せる時が来るだろうか。
「新一さん、光彦君から聞いたよ? 歩美も見たかったなー、嫉妬に狂った新一さん」
「は!? 狂ってねーよ、ていうか、おまえらどこでそんな言葉覚えて来るんだよ…」
「大人げねーぞ、兄ちゃん」
本気で呆れかえる元太の横で、哀が鼻で笑うような視線を新一に寄越す。その憎たらしさすら愛しい。
少年探偵団から語られる過去の出来事を一つ一つ想像しながら新一は哀を見た。哀もどこか懐かしそうな目で彼らの言葉に相槌を打っている。
江戸川コナンはもうどこにもいない。それを新一はどこかで罪深く思っていた。しかしコナンは確かに彼らの心の中で生きている。それだけで許されるような気がした。
覚えのある温かな空間に身を預けながら、歩美と哀が焼いたチョコレートケーキを口に運んだ。ほろ苦い甘みが身体中に広がった。
今でも時々夢を見る。それはコナンが残した後悔であり、思い出であり、哀への想いだ。その夢がこの時間に重なる時、初めて世界はひとつになるのだ。