エピローグ


 コナンは先ほど博士から受け取って来たカプセルが入った小瓶を手に取り、宙にかざした。
 解毒剤が完成したと哀から伝えられたのは一週間前の事だった。待ち望んでいた言葉だった。子供の身体は思った以上に不自由で、そして大人との意思疎通もはかれない。さまざまな幸運が味方をして、最終的に目的を果たす事は叶ったものの、誰よりも自分を待っている幼馴染を迎えに行かなければならなかった。
 窓からの光に反射する小瓶の中のカプセルを見つめながら、これで終わりだとコナンは思う。同時に、江戸川コナンが見てきたこの光景が消滅する事に、恐怖を覚えた。座っていたベッドから立ち上がり、小瓶を置いてクローゼットに駆け寄る。

「江戸川コナンはいなくなるんだ」

 自分自身を守って来た博士の発明品の数々を手に取り見つめながら、敢えて声に出して言う。そうしないと、とても現実を受け入れられなかった。
 どうしてこの身体はひとつしかないのだろう。こうなることは分かっていたのに、その時になってコナンは戸惑った。少年探偵団は泣いて引き止めた。蘭は手紙を書いてね、とコナンを抱きしめた。それは確かに工藤新一の持たない世界で、それを自分は消そうとしているのだ。
 この解毒剤を受け取る時に哀に会えなかった事で生じた迷いが大きくなる。彼女への感謝を伝えるのは元に戻ってからでも遅くない。そう思うのに、迷いは消えない。それを振り切るようにコナンはクローゼットから離れ、ベッドに座って再びカプセルを手に持った。窓から差し込む光は今日も柔らかい。
 不眠不休で研究してくれた哀の努力を無下にはできない。それは哀の覚悟であり、コナンの覚悟でもある。コナンはカプセルを口に放り込んだ。
 でも灰原…。不自然に高まる鼓動を感じながら、コナンはベッドに横たわった。――灰原、おまえを傍で守れる人間は俺しかいない。例え姿が変わっても、名前が変わっても、それだけはコナンの中では変えられない、確かに存在した感情だ。
 手足の感覚が消え、心臓だけえぐり出されたような熱を覚える。人が死ぬとはこういう事なのかもしれない、と薄れる意識の中でコナンはゆっくりと目を閉じた。



 どくん、と心臓が大きく鳴り、飛び起きた。
 自分自身の身体に触れ、新一は自分が肉体的にも大人である事を確認する。覚えのある心臓の熱さにめまいを覚えた。横に目を向けると、哀が小さく寝息を立てている事に安堵し、深呼吸する。
 恐らく、あれは江戸川コナンが工藤新一へと帰還した時の出来事だった。新一の記憶の始まりはその翌朝だ。あれからどれだけの季節が巡っただろう。哀に出会い、少年探偵団に出会い、高校、大学を卒業して、探偵になって。
 そして、哀と一緒に生きる道を選んだ。
 今ではもう恐怖とともに目覚める事も少なくなった。それでも時々、混濁した意識が新一を襲う。

「……工藤君?」

 目を覚ました新一に気付いたのか、哀が目をこすりながら新一を見上げた。

「どうしたの…?」
「ああ、ごめん。何でもないんだ」

 新一は再び布団の中にも潜り込み、哀の頭を撫でる。カーテンの向こう側に宿る光はまだわずかだ。
 出会った頃は肩までの長さだった哀の髪の毛は、新一と付き合うようになってから伸ばされている。胸元まで伸びた髪の毛をに指を通すと、白い肩がむきだしになった。そこには銃創と思われる傷が見え、新一はそこに唇を落とす。

「ねえ、本当にどうしたの…?」

 くすぐったそうに身をよじりながら、哀がつぶやく。
 守れなくてごめん。そう思うけれど、新一は言葉にしないまま哀を抱き寄せて目を閉じた。時々新一を襲う残像は、江戸川コナンからの警告かもしれない。

「時々混乱するんだ」

 静まった部屋の空気に新一の声が混じる。

「俺の知っている光景が、情報なのか記憶なのか」

 探偵である新一は知りすぎてしまった。
 哀を想えば想うほど、江戸川コナンが浮かぶ。コナンは自分の分身だ。今となってはコナンの感情を知る事ができる。だからこそ戸惑うのだ。

「大丈夫」

 そんな新一に、哀は小さく微笑む。華奢な指先が新一の頭を撫で、新一の中に眠る不穏な感情を溶かして行く。それはまるで魔法のようだ。

「どんな出来事にぶつかっても、前に進んでいきましょう」

 哀の言葉とともに新一は再び眠りの世界へと落ちて行く。
 目覚めの時間にはまだ早い。




fin.


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