5.One


 セーラー服は機能性に悪い事を初めて知った。中学生になるのは二度目で、アメリカの学校には制服が存在しなかったのでどんなものかと興味があったが、いざ着てみると不便な事この上ない。

「哀ちゃん…?」

 学校帰りにいつものようにスーパーに寄って買い物をしていると、覚えのある声がかかり、顔をあげて、哀は目を見開く。

「……蘭さん」

 そこには記憶の中よりずいぶん大人になった彼女が、哀と同じように買い物カゴを持って、昔と同じように優しく微笑みかけた。

「久しぶりだね。哀ちゃん、もう中学生になったんだね。すっかり大人だなぁ」

 哀が蘭に対して頂いた印象と同じような事を蘭が言葉にするので、哀は小さく笑う。哀は中学一年生になっていた。計算すれば、蘭はもう二十三歳になっているはずだ。新一と同じように。

「蘭さん、今も米花町に住んでるの? 全然会わないわね」
「ううん、私は別のところで就職したの。でもこの連休で実家に帰ろうかなって思って、買い物してたところ」
「そう……」

 思いがけずに耳にする彼女の近況に、哀はうなずく。今や誰も蘭の近況を語る人間がいなかったので。
 時々思い出していたのだ。彼女は元気にやっているのかと。新一から彼女の名前を聞く事は、別れたと告げられて以来なかったから。

「――新一は元気?」

 蘭の顔を見て一瞬にして忘れてしまった今夜の献立を思い返していると、蘭がためらいがちに口を開き、哀は再び顔をあげた。蘭の瞳は揺らいでいて、それでも聞かずにはいられないといった表情だった。

「…ここ一ヵ月くらい会っていないけれど、変わってないんじゃないかしら」
「そうなんだ」

 蘭はスーパーの棚から牛乳を手に取り、賞味期限を目で確認してからカゴにそっと入れた。

「哀ちゃん。新一の事、よろしくね。あいつ、自分の事お構いなしで突っ走っちゃうからさ。哀ちゃんみたいに冷静に止めてくれる人がいないと不安だわ」

 白いコートの襟に浮かぶ長いロングヘア。痛みを知らないその黒髪は、今でも姉と重なる。彼女を天使だと称した女を思い出す。不本意だけど、言い得て妙だと思う。だけど。
 新一が彼女と別れたと告げたのは、二年前の夏の事だ。事件にかまけてばかりいて愛想尽かされたのだと新一は弱々しく笑った。今でも哀の中で消化しきれない出来事だ。他人の感情など誰にも理解できる事ではないと分かっているのに、蘭の言葉が無責任に思えて、哀はセーラー服のリボンをぎゅっと握り、蘭を向いた。

「どうしてあなたがそれを言うの?」
「え…?」
「工藤君を振ったあなたに、そんな事言われたくないわ」

 哀の言葉に、蘭は視線を戸惑わせた。

「…新一、そんな事まで哀ちゃんに話していたんだね」
「………」
「確かに、別れようって言ったのは私だけど、でも…。新一が見ていたのは、私じゃなかったから」

 どうしようもなかったんだよ、と蘭は泣くような顔で笑った。
 哀は自分の発した言葉に後悔をする。やはり二人の事は二人にしか分からなくて、介入する事自体がナンセンスだ。それでも、あの頃の新一を思うと、口に出さずにはいられなかった。でもそれは本当に新一の為だろうか。どこかで自分を守りたいだけじゃないだろうか。
 けれど、今の新一は忘れているけれど、哀はずっと新一の傍にいたから知っている。彼がどれだけ蘭を思い、傷ついてきたかをずっと隣で見ていたのだ。
 彼が偽りの姿で過ごしていた日々から六年の月日が経っていた。



 蘭との会話で後味の悪さを残したまま、哀は買い物を終えて阿笠邸に帰った。年明けのムードは街の中から消え失せ、冬の寒さは本格的にやって来ている。セーラー襟から入る冷たい風が体温を奪い、哀はぎゅっとマフラーを握った。

「ただいま」

 声をかけながら靴を脱ぐ習慣は変わらない。一度博士がキッチンで倒れていた時はこの世の終わりが訪れたのではないかというほどの絶望感に見舞われたが、あれからは哀が博士の食生活を厳しく管理している甲斐もあり、今でも発明を続けながら元気に暮らしてくれている。
 リビングのドアを開けるとコーヒーの香りが漂っている。ソファーには博士と新一が座っていた。

「灰原、おかえり」

 テーブルにノートパソコンを置いた新一が、哀を見るなり微笑んだ。

「おかえり、哀君。新一君じゃがロスに渡っていたみたいでな。さっき帰って来たとこじゃよ。一緒に夕食してもいいかのう?」

 新一と向かい合わせに座る博士が、満面の笑みでそう言うものだから、哀はうなずくしかない。スリッパの音を立ててキッチンに入り、冷蔵庫に買って来た野菜を入れて行く。今日の献立はもう一品追加したほうがいいかもしれない。
 このタイミングで新一に会ってしまった事を悔まれる。ついさっきスーパーで蘭に偶然会った事を伝えたほうがいいだろうか。彼女は元気そうだったと。米花町を出て働いているのだと、近況を報告したほうがいいのだろうか。
 冷蔵庫のドアを閉め、ため息をつく。コーヒーメーカーに残っているコーヒーをカップに注ぎ、口に含んだ。それは少し温くなっていて、冷えた身体を温めてはくれない。
 リビングでは新一が博士と談笑しながらも仕事をしているようだった。時々こうして新一は阿笠邸のリビングに上がり込む。だから、距離を置きたくても置く事ができない。彼を忘れたくても、忘れる事ができない。
 新一は今でも記憶を失ったまま、この生活に溶け込んでいるというのに。彼と別れた蘭も、新しく一歩を踏み出しているのに。いつまで経っても哀は同じ場所に立ったまま、前にも後ろにも進む事ができない。