思えば、よみがえる光景は全て、江戸川コナンが残してきた後悔だった。
哀の姉を守れなかった強盗事件、黒ずくめの男に撃たれて倒れる大人の哀の姿、恐らく犯人を自殺に追い込んでしまったであろう炎の出来事、そして先ほどのように心を閉ざして正体を明かした哀に投げた言葉。
抱きしめられた哀が新一の腕の中でもがく。
「工藤君、離して!」
「嫌だ」
「どうして!」
ポーカーフェイスを崩した哀が身をよじるが、新一の腕の力に叶うはずがない。
一週間前も新一は彼女を抱きしめた。あの時は自分を知っている全てを話し終えた後で、そして彼女が江戸川コナンに恋をしている事を知っている上で、感謝の気持ちも込めて触れたはずだった。
でも今は違う。こんな醜い感情、他に知らない。彼女が過去に傷ついている事を知っていながら、その傷を深く抉りたくなった。その傷だらけの過去を知るのは、きっと哀と自分だけだ。妙な優越感が脳を支配する。そして普段同じ制服を着て過ごす哀と光彦の姿が瞼の裏に残り、焦燥感が湧きあがる。
「くだらない同情なんていらないわ!」
腕の中で哀が叫び、新一は我に返った。力を緩めて哀を見下ろすと、哀は目に涙を浮かべながら、新一を睨んだ。
「私があなたの人生を狂わせたのに…」
冷たい突風が哀の前髪を揺らす。身震いするほどの寒さが彼女の体温を手の平に教えてくれるので、彼女から離れる事ができない。
哀と秘密を共有するのは江戸川コナンだ。でもその存在はどんどん小さくなっていく。今ではもう、コナンを語る人間はほとんどいない。
彼女は組織で、動物を幼児化させる薬を作っていた。江戸川コナンが生まれてしまった事も彼女は後悔している。
唐突に恐怖を覚えた。
「灰原…」
声が震えたのは、寒さからか恐怖からか。
「俺の中から、江戸川コナンを消さないでくれ…」
ずるずると新一はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。指が哀から離れ、体温を失う。冷たいアスファルトの匂いが鼻につく。吐く息が白い。
弱々しい新一の言葉に、哀もしゃがみ込み、震える手で新一の髪の毛に触れた。指先はとても冷たい。いつかのキスを思い出した。あの夢は何だっただろう。数年前に一度だけ見た夢の中で、まだ中学生ではなかったはずの哀がまるで今と同じ姿で、眠る新一に触れた。溺れかけていた新一に酸素を与えるように。
「消えないわ」
いつだって哀は新一を救い出してくれる。
この世界は容赦なく悪意が混在していて、今でも水の中にいるように呼吸困難に陥りそうになるけれど、哀の傍だけは新一にとって安全地帯だった。
「だって私はあなたを忘れない」
江戸川コナンの姿を写真越しで見ても他人事のように思っていた。だけどそこには確かに鼓動が存在していて、今の新一を形成する一つの要素となっていた。
新一が顔を上げると、哀は同じ目線の高さで、泣きそうに笑った。先ほどの挑発的な顔はもうどこにもなかった。
自分の事を見て欲しい。そう思うのに、江戸川コナンを忘れないで欲しい。矛盾している事は分かっている。不安定な場所でギリギリ存在しているこの感情を、なんと呼べばいいのだろうか。
「ずっと、謝りたかったの…」
寒さで冷える指先を擦り合わせながら、哀は言う。
「許されないって分かっていても、許されたかったの。とても薄情で、自分本位だった」
「違う!」
哀の謝罪に対して強く否定し、思わず哀の手を取った。
「おまえが長い間、俺の事も、少年探偵団の事も見守ってくれてた。たった一人で」
祈るように彼女の両手を新一の両手が包みこむ。自分本位なのはむしろ俺のほうだ、と新一は小さくつぶやく。恐れてばかりで真実さえ確かめる事もできなかった。どっちにしても彼女を追いつめてしまう事は分かっていた。
「今の俺も、その頃の俺も、おまえに感謝してる。おまえを大事だと思ってた。…絶対に」
気持ちが伝わるように哀の両手を握りしめ、そう言った。世の中には証拠を必要としないものも存在する。江戸川コナンはどんな形であれ、哀を大切に思っていた。そうでなきゃ、あんな映像を新一に見せない。後悔を残すはずがない。
哀は江戸川コナンの存在自体が間違っていたと言った。論理的に語ればそうかもしれない。でも新一はそうは思わなかった。新一が哀に出会う為に必要な道だった。
「灰原、俺はおまえを守りたいんだ、今度こそ」
新一の声に、哀がゆっくりと顔をあげた。
彼女の濡れた瞳を見て、また泣かせてしまったという罪悪感が沸き上がるのとと同時に、人には見せられない独占欲が満たされた。人を好きになるという事がこんなにも醜い感情だなんて知らなかった。それでも、新一は思う。今度こそ哀の傍で、哀と同じ景色を見たい。
「俺の中には確かに江戸川コナンがいるんだ。おまえがコナンを好きだって知っているけれど、それでも俺はおまえと一緒にいたい」
ずっとしゃがみ込んでいるせいで指先に上手く血液が回らない。哀のまっすぐな視線を感じ、彼女はこんなに綺麗だっただろうかと新一は思う。安全地帯の場所でも息が苦しい。それでも傍にいたい。人生は矛盾だらけだ。
「あなた、馬鹿なの?」
ようやく口を開いたと思えば、哀の言葉はとても辛辣なもので、新一は唖然と哀を見つめた。哀は笑いを堪えるように、いつの間にか新一の両手を握り返して、言った。
「私はとっくにあなたに惚れているのよ、工藤君」