6.Super Heroine


 東京駅で服部を見送ったのはまだ夜の7時だった。早い時間から飲んでいたので、体内時計が狂う。
 電車に乗って米花駅で降りる。一月の夜の訪れは早い。そして空はとても澄んでいた。先日雪が降った事など夢だったかのように、雪はどこにも残っておらず、街は正常に機能している。時折吹く冷たい風が頬に触れ、酔いを覚まさせるには十分な寒さだった。
 新一は黒いコートのポケットに手を入れたまま歩く。今日は日曜日ということもあり、平日とは景色が違って見える。休日出勤をしたサラリーマン、高校生くらの女子三人組、大学生くらいのカップル、様々な人々とすれ違う。
 新一がこうして今生活をできているのは哀のおかげだ。哀は薬の研究に関与する研究者だった。江戸川コナンが生まれたのも、新一が元に戻ったのも、哀の力だ。哀にも本来の姿があったはずだ。
 何も知らずにのうのうと過ごしていた頃の自分が憎い。だけど、ずっと知らない振りをしていた。彼女は過去に対して罪悪感を抱いていたのを新一は知っていたから。
 大通りから閑静な住宅街に入り、工藤邸が見えてきた。ようやく帰宅する事にほっとしていると、阿笠邸から二人の人影が見えた。

「じゃあ、灰原さん。また明日」
「ええ。気をつけて帰ってね」

 阿笠邸の門のところで挨拶を交わす二人。急激に酔いが冷めた。胃の中にどろっとした熱い何かが流れていく感触を覚え、新一は自然と早歩きになる。

「灰原!」

 夜に似つかわしくない声で叫ぶと、二人は怪訝そうに新一を見た。

「あ、新一さん。こんばんは」

 新一だと分かった途端、哀の正面に立っていた光彦がいつものように礼儀正しく新一に笑いかけて来た。光彦の私服姿を見るのは久しぶりだった。小学生の頃よりもファッションに敏くなったのか、ストライプ柄のマフラーがよく似合っている。

「光彦……、こんな時間に何してたんだ?」

 いつもよりも低い声で訊ねる新一の様子に、にこやかだった光彦が眉根を寄せる。

「何って…。今日は博士の家で勉強していたんです。学年末試験は範囲も広いですから」

 試験。ずいぶんと懐かしい響きを持った名詞だった。彼らとの年齢の差を感じる。
 光彦は義務的に新一に挨拶をし、そして哀にもう一度手を振って帰って行った。新一はその伸びた背筋を見送りながら時間の流れを思う。子供だと思っていたのに、いつの間にか大人になっていた。そういえば声も知っているものより少し低く、かすれていた。男だった。

「工藤君、どうしたの?」

 門の傍に立ったままの哀が、怪訝な顔のまま新一を見上げた。新一はさらに哀に近付き、先ほど光彦が立っていた場所に立つ。外灯によって移る睫毛の影も、白い頬も、ピンクがかった唇も、全てを手に入れられる距離で、光彦が哀と話していた事に胸がざわついた。

「何してんだ、おまえ」
「何って、さっき円谷君が言ったように、勉強会をしていたのよ」
「勉強くらい一人でできるだろ。光彦も頭いいんだしさ」
「そりゃ、円谷君は賢いけれど、小嶋君が勉強会しようって言い出したのよ。それで吉田さんも呼んで四人でしていたの。何か文句あるわけ?」

 哀の言葉に、自分が勘違いしていた事を新一は知る。でも一度口から出た言葉は取り戻せないし、腹の中で燃えるような感情はおさまらない。

「元太と歩美の姿は見当たらなかったようだけど」
「あの二人は少し前に帰ったのよ」

 新一の口出しに哀も腹を立てているのだろう、哀が今までにないくらいつっけんどんに言い返してくる。

「…何なの? 私、あなたの娘になった覚えはないんだけど」
「娘!? よく言うぜ。――本当は俺とたいして歳も変わらねー癖に!」

 頭に血が上って思わずそう吐き出し、はっとした。哀を見ると、彼女は震えながらそれでもまっすぐに新一を見つめて来る。揺れるその瞳に後悔を覚えた。そうだ、口から出た言葉は取り戻せない。
 自分が江戸川コナンである事を語る事はできても、彼女の事は禁句だったはずなのに。
 しばらく沈黙が走る。お互い負けじと見つめ合いながら、どちらが先に口を開くか、唇を震わせながら待っていた時、

「――シェリー」

 ふと哀がつぶやいた。
 酒の名前だった。彼女が何を言っているのか、新一にはすぐに分かった。

「組織にいた頃の、私のコードネームよ」

 何かを割り切ったのだろうか、無表情ながらも挑発的な視線を向けて、彼女は新一に笑いかけた。
 この光景を知っている、と思った。今とは違う暑い夏の夜の出来事だった。彼女との出会い、彼女の告白。彼女の弱さにも気付かないまま、幼稚だった自分は彼女にどんな言葉をかけただろうか。
 思い出せない。だけど心に残る後悔がその情景を駆り立てる。
 それを掻き消すように、新一は門の前に立つ哀を身体ごと引き寄せるようにして抱きしめた。