6.Super Heroine


「ちょお、聞いてや工藤」

 音を立ててジョッキを置きながら服部が死んだ魚のような目を向けて新一に絡んでくる。

「なんや、和葉の奴、入社してから残業やら飲み会やらで忙しそうにしとるんや。男もおる飲み会やで。大学の時もそら行っとったけど、頻度が変わったっちゅーか、あいつ何やら充実しとってえらい楽しそうやし、もうほんまにワケ分からんわ」

 本当に頭を抱えそうに語る服部を見て、新一は思わず声をあげて笑う。

「おまえ気にしすぎじゃねーの? 行き過ぎる嫉妬心は醜いぞ」
「工藤、おまえは最近の和葉を見てないからそんな風にのん気に言えるんやで。前に比べて綺麗になったし、変な男に見染められたらどうすんのや」

 ところどころ惚気が入っているが、本人はどうやら気付いていないようだ。
 先日の風邪が完全に治るまでに三日という時間を要した。高校生の頃なら一日で治っていたはずなのにどうしたものか。こういうところで体力の衰えを感じる。これが周りが嘆く歳をとるということか。
 あれから一週間が経ち、新一は相変わらず仕事に奔走しながら、今日呼ばれた先の現場で服部に会った。その事件は元々大阪府警が絡んでいたらしい。服部も新一と同様、この春に大学を卒業し、そして今は警察学校に通っているはずだ。そして探偵としての能力を買われ、今回の事件には大阪府警刑事と同行したそうだ。
 事件解決後、今日中に大阪に戻る服部と一緒に東京駅近くの居酒屋に入って、珍しく服部は酔っ払っていた。よっぽど和葉の置かれている環境が許せないのだろう。

「それより工藤」

 突然変わった服部の声色を聴き、新一は唐揚げをつまもうとしていた箸を止めた。

「…なんだ?」
「この前の電話の事やねんけど」

 ビールをもう一口飲み、服部が神妙につぶやく。居酒屋のざわつきが一瞬にして耳に入らなくなった。新一は箸を置き、正面から服部を見る。

「俺が江戸川コナンだったって話だよな…」

 うすうす感づいていたのだろう、服部はぴくりと瞼を動かしただけで、口を閉ざしたままだ。

「俺は、おまえの言うほどできた人間じゃなかったと思うぜ。正体を隠すに当たって、おまえに色々協力してもらった事には感謝してる」
「……せやけど工藤、おまえが正体を隠してたっちゅう理由だって、毛利のねーちゃんを傷つけたくなかったからで」
「知ってる」

 全部知っている。
 この情報を記憶に変えられたらどんなにいいだろう。でも心がそれを拒むのだ。感情を持ってその出来事を捕えることは、もう二度とできない。

「俺が記憶を失くしてからずっと黙ってくれた事も感謝してるよ」

 そう言って新一がビールを口の中に流し込むと、まっすぐな視線を向けたまま服部が言った。

「なぁ、あのちっこい姉ちゃんは知っとんのか」
「…灰原の事か?」
「そや」

 胃の中が炭酸でいっぱいになる。体内が水分で満たされて塩分を欲する。その衝動を抑えながら、新一は唾を飲み込む。
 ただ哀を思うと、その感情を取り戻したくなる。江戸川コナンは彼女の気持ちを知っていたのだろうか。彼女を泣かせはしなかっただろうか。
 少年探偵団や警察関係者は、コナンは毛利蘭を好きだったと語る。当然だった。あの頃の新一にとって世界を変えるようなあの笑顔が全てだったのだ。
 だとしたら、哀は一体どんな気持ちを抱えていたのだろう。これだけの時間が経ってしまったけれど、せめて新一がコナンとして彼女に向かい合いたいと願う。不可能だと分かっていても。

「知ってる」

 ジョッキの中のビールの泡が少しずつ消えて行く。
 一週間前、真実を突きとめた事件で犯人が目の前で睡眠剤を大量服用した。新一は自分が殺してしまったんだと思った。大事には至らなかったものの、脳のどこかでよぎった映像が消えない。瞼の裏に映る炎が消えない。
 情報をかき集めても、パズルのピースは埋まらない。江戸川コナンだけが目撃したものは、永遠に迷宮入りだ。その出来事も、その感情も、その景色も。
 新一は思う。――俺が江戸川コナンを殺したのではないか。

「なぁ服部…。俺はどうしたらいい…」

 哀と話している時、いつも自分を通して別の誰かを見られている気分だった。新一が最大の謎に辿りついてから五年、気付かない振りをしながら彼女と関わり、様々な感情が見え隠れしていたように思う。

「あいつ、江戸川コナンが好きなんだ…」

 テーブルに肩肘をついた手の平で、新一は前髪を掻き上げる。
 コナンは彼女を守れていただろうか。新一は今でも時々夢に見る。大人の姿をした彼女が黒いコートを羽織った銀髪の男に撃たれるのだ。雪が血で染まった。あれはどこかのビルの屋上だ。
 その光景が浮かぶと息苦しくなる。これを人は後悔と呼ぶのだろうか。

「俺、あいつを守りたいんだ…」

 コナンが抱いていたであろう後悔を引き継ぎ、新一は何度もそう思った。だけど灰原哀は十歳も年下で、理由もなく傍にいられるわけがない。二年前に博士が自宅で倒れ、救急車で運ばれた一件から、彼女との距離感が変わったように思うけれど、本質的には何も変わらない。
 新一が語らなかったのと同様に、哀は真実を隠していたのだ。

「工藤、俺はあのねーちゃんの気持ちまではよう分からんけど、昔も今も工藤の事を悪く思ったりはしていないはずやで」

 そんなの事分かってる。だって哀は優しい。そして我慢強い。姉が殺された時も、コナンがいなくなった時も、ずっと一人で抱えてきた。

「ちゃんと話し合う時期が、ようやく来たんや」

 ぽつりと落とされた言葉に、新一は顔を上げる。服部は先ほどのように顔を赤くしたまま、店員を呼び、ビールを二つ頼んだ。居酒屋の店内の音が再び鼓膜を揺らす。酒に酔っているのは服部ではなく自分のほうかもしれない。