部屋に入った時に電源を入れた暖房が少しずつ効いてきたようだった。雪が降っていた昨日とは違い、今日は冬の柔らかな日差しがリビングを照らす。
「工藤君、やっぱりまだ熱があるんじゃない?」
耳のすぐ傍で哀がつぶやき、新一はセーラー襟に押し付けていた頭をゆっくりとあげた。哀の緑がかった瞳は揺らぎながらも、しっかりと新一を見つめていた。覚悟のある瞳だった。
「六年前…」
新一がつぶやくと、哀はびくりと肩を震わせた。それでも、これだけは伝えなければならなかった。
「俺は、おまえに出会ったんだな」
「…そうよ」
「江戸川コナンとして、灰原哀というおまえに、出会ったんだ」
破損した携帯電話を思い出す。コナンと哀の会話はお互いをよく分かっているようなテンポで、相棒のようなやりとりに胸の中がざわついた。記憶を失ったことについて、取り戻さなければという義務感を抱いた事があった。でも、その時初めて思い出したいという感情が芽生えた。
コナンが心の奥底で何を思っていたのか、今はもう知る術もないけれど。
「やっぱり、おまえがいてよかった」
ソファーの隣で向かい合うように座っている目の前の哀に言うと、哀は唇を震わせた。
「……あなたは、いつも一人で戦ってたの。きっとたくさん傷ついたわ。今だって」
「灰原」
彼女の言葉を制するように、新一はその細い体を抱きしめた。
新一は哀の正体を知っている。何に関わって来たか知っている。でもそんな真実は新一にとって重要じゃない。今ここにいる彼女全てが、今の新一を満たす。
「俺を、工藤新一に戻してくれて、ありがとう」
新一の言葉に哀は泣いた。新一の腕の中で。
哀の嗚咽が治まった頃、暖房の効いたリビングのソファーでコーヒーを飲みながら、哀は少しずつ話し始めた。コナンはクラスの中でも輝いていた事、外に出たがらない哀を連れて少年探偵団とサッカー観戦に行った事、そこでも事件が起こった事、その他にも少年探偵団とは多くの事件に遭遇した事、それにより迷宮入りを防いだ事件もあった事。
「じゃあ俺の腹にある銃創の跡って、あいつらとキャンプ行った時のものだったのか?」
「ええ、そうよ」
「危ねーな…。子供連れてそんな事件に巻き込まれたなんて肝が冷えるぜ」
「でも、あの時のあなたは、これで迷宮入りを防げたってあの子達に言ったのよ。まるでアニメに出てくるヒーローみたいね」
マグカップを両手で持ち、まだ目を赤くしたままの哀は小さく微笑んだ。本当にコナンを好きだったんだなと新一は思う。
――俺の事も好きになってくれたらいいのに。
突然心に落ちた感情に、新一は戸惑い、マグカップを乱暴にテーブルに置いた。
「工藤君、どうしたの?」
突然会話が途切れた事に哀は目を丸くし、新一の顔を覗きこんだ。その上目づかいに心臓が握りつぶされたように痛み、新一は哀との距離をとる。
「…悪い、熱があがったかも」
眩暈がして動悸がする。
「ほら、やっぱり。早く休みなさい」
叱るように言いながらソファーから立ち上がってマグカップをキッチンに運ぶ哀の後姿を見て、新一は右手で口元を押さえた。日本人離れした彼女が他人に見劣らない事は知っていた。出会った時から美人な子供だな、と思うくらいには新一にも審美眼が備わっている。
でも新一にとっての灰原哀は、一緒にいて落ち着いて、会話ができて、そして自分の知らない江戸川コナンという自分自身を知っている、そんな存在だったはずだ。本来の年齢が自分と変わらないであろうことは想像しても、外見上は十歳も離れている。
「――灰原」
玄関を出て行こうとする哀を呼び止めると、哀は不思議そうに振り返った。
「何?」
「おまえ、いなくなったりしねーよな?」
ふらつく足取りで新一も玄関に立つと、靴を履いた哀が新一を見上げ、肩をすくめた。
「いなくならないわ。運命から逃げるなって、あなたに言われたもの」
そう言い残して、哀は工藤邸から出て行った。新一はその場にしゃがみこみ、頭を抱えた。
いつか蘭に言われた言葉を思い出す。彼女の言っていた事は本当だった。新一の中に潜んだ真実を見据えていたのは、新一自身ではなく蘭だったのだ。
一ヵ月前、仕事でロサンゼルスに渡った時に久しぶりに母親に会った。
「新ちゃん、いい女の子はいないの?」
その昔、二十歳にして世間を賑わす電撃結婚を果たした有希子が、どこかつまらなさそうにソファーにもたれてつぶやいた。
「母さん、俺に会うたびに聞いてくるなよ」
「だーって、新ちゃんってば蘭ちゃんと別れてから、何一つ浮いた噂ないんだもの。闇の男爵夫人の一人息子が、情けないわー」
ちなみに父親の優作は仕事でロスにいないようだ。新一もせっかく有希子に会えたとはいえ、ゆっくりはしていられない。食事も一緒に摂る時間がないので、せめてものと有希子とカフェに入った途端、有希子の愚痴が始まる。最近の彼女の興味の対象は、もっぱら旦那より息子だ。
「ところで、哀ちゃんは元気?」
「え? あ、ああ、ロスに来る前に会ったっきりだけど、変わらねーと思うけど…」
なぜここで哀の話題が出てくるのか、有希子らしい突拍子さに驚き、新一は口ごもりながら高そうなティーカップでコーヒーを口に含んだ。ロスで有名なカフェだが、コーヒーの味はどうも新一の好みではない。哀が淹れてくれたコーヒーの方が美味しいと思った。
「新ちゃんって名探偵のくせして、優作に似て鈍チンだからなー…」
「誰が鈍チンだよ…」
「新ちゃんの周りでさ、新ちゃんのことを見つめて来る女の子はいないの? だいたい女の子が男の子をじっと見つめて来るのは、顔に何か付いているときか、その男の子の事が好きな時なのよ」
有希子はソファーのひじ掛けに片腕を置き、悪戯を含んだ笑みでじっと新一を見る。新一と同じ青みがかった瞳、元女優である彼女の美貌は何年経っても変わらない。世間が評するように、きっと彼女は美しい。
しかし新一は、なぜか哀を思い出した。彼女の白い頬も、長い睫毛も、どこか空虚に見える緑がかった瞳も、綺麗だと思う。
時々哀は新一を見つめて来る事があった。でもそれは、ただ単に江戸川コナンであった新一を思い出しているだけにすぎないのだろうとその時の新一は考えていた。