「あなたを救ったのは、あなた自身だったのよ」
静かにつぶやかれた哀の言葉に、新一は声を詰まらせた。
哀は分かっていない。新一の記憶で彼女に出会った日と、実際に新一が彼女に出会った日には齟齬が生じているけれど、いつ消えてもおかしくないような曖昧な世界の中で、灰原哀の存在がひとつの道標になっていたのだ。
哀の肩までの長さの茶髪に触れたまま、昨日高熱を出した時のように哀のセーラー襟に額を乗せる。
「工藤君…?」
哀の困惑したような声が響き、新一は目を閉じる。彼女はもう十三歳だ。柔らかい髪先から香る甘い匂いに脳が痺れそうになる。
――私、江戸川君が好きだったの……
つい先ほど、正門で歩美に告げられた哀の言葉。分かっていても、彼女の口からそれを聞き、新一は動揺した。哀が好きなのは江戸川コナンで、新一ではないのだ。
彼女の事を知りたい。彼女の本当の名前、本当の歳、どのように過ごし、どのような事を考えながら生きてきたのか。それらを確かめる事は躊躇われた。
真実を述べる事は簡単だ。しかし、それにはリスクが伴う。
それは朝から雪が降っていた昨日の出来事だった。
探偵である新一にとってはよく目の当たりにする殺人事件で、冷え込んだ現場に呼ばれた新一はいつものように検証し、事件の鍵となる重要参考人から話を聞いた。殺された男の妻である彼女が犯人である事は新一の中では決定事項だった。
初めは否定していた五十代の彼女に、新一が言い逃れのできない証拠を突きつけると、彼女は持っていた睡眠薬を大量に口に含んだのだ。刑事が数人がかりでそれを止めたが、口腔内崩壊錠であるそれは彼女の胃の中に入り、彼女の言動は次第におかしくなった。
すぐに救急車が呼ばれ、処置が下されたので命に別条はなかった。今時の睡眠薬は大量摂取したくらいでは死ぬ事などあり得ない。分かっていても、それを始終目の前で見ていた新一の心臓は冷えて行った。
夫を殺した彼女は日頃から夫からの暴力に耐えかねていた。恨みは殺意となって彼女の心を燃やした。
もっと他に方法はあったのではないか。犯人の無事を確認してからも、新一は警察病院から動く事ができなかった。ふと鼻腔に潮の香りが蘇り、瞼の向こう側に真っ赤な炎が浮かんだ。自分の失ってしまった記憶の中で過ちを犯してしまったのだと確信し、新一は病院のトイレに駆け込んで吐いた。元々空だった胃の中からは胃液しか出てこず、口の中に苦い酸味が広がった。
そんな時、ポケットの中で携帯電話が震えた。
『よう、工藤。元気しよるか?』
タイミングの良すぎる関西弁に、新一はトイレに立ったまま鏡を見つめた。青ざめた自分の姿がそこにあった。
「…服部」
今も大阪に住んでいる親友は、刑事になるべく警察学校に通っていた。新一は鏡に触れながら、つぶやく。
「俺、犯人を殺しちまった事あったか?」
毛利小五郎が解決した事件は一通り見てきたはずだ。いくつか容疑者死亡と見出しがあったものもあった。しかし、それらはどれも不慮の事故だと思っていた。その中に見落としていた、不自然なものがなかっただろうか。例えば、事件の後に起こった大火事。
『工藤。おまえはどんな凶悪犯の命も尊重する主義だったはずや』
服部の言葉に、新一は唇を噛んだ。確かにどんな人間だって死んでいいわけがないとは思っていた。しかし、そんなに強い信条を掲げた覚えもない。
きっと服部は、先ほど東京で起こった事件について小耳に挟み、こうして電話をしてきてくれたのだろう。
真実は時に人を傷つける。分かっていた事なのに理解していなかった。自分自身がこうして逃げているのに、何故他人には簡単に真実を凶器にできたのだろう。こんな自分は名探偵でも何でもない。物事を知ったかぶって思い上がった、ただの子供だ。
「服部……」
震える声で新一は言った。鏡の中の自分の目は澱んでいる。でも今こそ真実が必要だと思った。
「おまえにとって、江戸川コナンってどんな子供だった…?」
突然出てきた固有名詞に、服部は息を飲み込んだようだった。
『何やねん、急に…』
「いいから」
『……おまえと一緒や。人を傷つけるのを許さへん、正義感を持った男やったで』
ずっと気になっていた。自分と同一人物のはずの江戸川コナンの瞳の奥側。それは世間を偽っている事から生まれたわけではない、また別の闇があるように見えていた。
居候先の蘭が語る無邪気さも、少年探偵団が語るスーパーマンのような勇敢さも、警察関係者が語る頭の回転が速くて鋭さを持つ賢さも、全て江戸川コナンという少年を形作っていた。でもきっと誰にも見えていない秘密はあったはずだ。例えば、本当は工藤新一という人格を持っている事。世界に広がる犯罪組織と対立しようとしていた事。
同じ運命を辿った哀がコナンをどう表現していたか。思い出そうとしても何も浮かばなかった。そういえば、彼女がコナンについて語った事はなかった。
『工藤、おまえまさか……』
「ありがとな、服部」
怪訝な服部の声を遮るように、新一は言った。
「俺は探偵なんだ」
だからいつまでも真実から逃げられないと思った。
喉が渇いて関節が痛みだし、頭がぼうっとする。少々頭を遣いすぎてしまったのかもしれない。服部との電話を終えて、ようやく新一は警察病院を出た。
朝から降り続けている雪はまだ止んでいない。空はもう真っ暗だ。その夜、無性に哀に会いたくなった。