願ってやまなかった温もりに包まれて、私は目を見開いた。私の背にまわされた腕にぎゅっと抱きしめられて、このまま溶けてしまいたいとさえ思った。
「江戸川君…?」
苦しくて呼吸も出来ない。酸素を求めるようにその腕の中で身をよじると、江戸川君ははっと我に返ったように私から離れた。私はようやく酸素を取り戻すけれど、心の中を掻くような苦しさに恋しさを覚えた。どうかしている。
江戸川君の指が優しく私の頬に触れる。その手はいつの間にか私のそれとは違って、大人の黒羽君のものと同じ種類の、男の手だった。
眼鏡をかけていない江戸川君の瞳はいつもより更に澄んでいて、吸い込まれそうな危うさを持っているのに、私は目を逸らせない。
「灰原」
形のよい唇が、人を引き付けるその声が、私を呼ぶ。
「好きだ」
私の中でデリートしていた言葉が意味を成して、私は唇を震わせた。
何度夢を見ただろう。その言葉に私はうなずきたかった。
何も返せない私をどう思ったのか、江戸川君は先ほどみたいに私の顔を覗きこんで、私の言葉を待った。自分の思いを語る事の苦手な私は逃げ出したくなる。でも江戸川君のその瞳に捕われて、もう逃げられない。
大きな手が私の頬から髪を触れ、耳を触れ、もう一度頬に触れて、唇に触れた。こんな触られ方を他に知らない。
「ずっと傍にいるよ」
彼を工藤新一に戻せなかった事も、彼が幼馴染を想っていた事実も、全てを消してしまうほどの視線と甘い声に、鳥肌が立った。
指で私の涙を拭った江戸川君は、私の額に額をくっつけるように顔を近付けた。私は目を閉じて、その温度を感じる。そして今度こそ自分の手で彼を守ろうと誓った。
私の願い、江戸川君が江戸川君らしく生きる為に。
念の為に一晩入院する事になった江戸川君との面会時間を終え、病室を出ると、廊下には私服姿の黒羽君が立っていた。
「遅かったね」
そこには怪盗キッドのオーラは微塵もなく、だからこそ私は複雑な心境になった。しかし黒羽君は何事もなかったように飄々と私に笑いかける。
「江戸川クンは無事だった?」
「…ええ」
私は少しだけ視線を落とし、ズボンのポケットに突っこまれた黒羽君の手をぼんやりと眺めた。きっとその手は多くのものを守り、そしてその度にたくさん傷ついてきたのだろう。
「江戸川君を助けてくれて、ありがとう」
視線を落したまま私がつぶやくと、黒羽君はふと笑った。
「どういたしまして。こちらこそ、おかげでやっと廃業に出来るよ」
もう怪盗キッドをやめたんだ、と黒羽君が訊ねてきた夜を思い出した。でも気がかりな事が一つ残っているとも言っていた。それは今回の事件の事だろうか。盗品の美術品が最終的にどうなったのか私は知らないままだ。
私は黒羽君を見上げる。四年前には大人と子供ほどだった身長差が、今では頭一つ分だ。
「あなたは、本当のあなたになれた?」
私の言葉に、今度は黒羽君が表情を失くして視線を逸らした。
私達はどれだけの感情を共有しただろう。私も黒羽君も、云わば影の存在で、影には光が必要だった。例えば私にとっての江戸川君のような、少年探偵団のような、私の姉のような。それらの存在があることで、ようやく私は私になれた。
複雑な事情が絡み合った中で生きてきた黒羽君にも、きっと太陽のような存在があったはずだ。彼はそれを守るために、敢えて私と一緒にいる事を選んだ。本当に大切なその存在が傷つくことを恐れて。
似た者同士だからこそ、よく分かる。だから私は彼を責められないし、きっと彼もこんな私を許すのだろう。
「哀チャン、大きくなったね」
黒羽君が静かに私の頭に手を乗せた。まるで子供をあやすようなその仕草に、私は苦笑する。
「悪いけど、実年齢は私のほうが上よ」
「え、そうなの?」
驚くふりをしているけれど、きっと黒羽君は知っていた。そして私の気持ちも、先ほど病室で私が江戸川君に告げた言葉も。
もう黒羽君が阿笠家のリビングで甘いコーヒーを飲む事はないだろう。
頭に置かれたこの手の温もりと寂しげな微笑みは、言葉にならない別れの挨拶だ。
文化祭から一週間も経てば江戸川君はいつも通り登校してきて、そのうち彼が文化祭に一般客に紛れた不審者に誘拐された事はすぐに生徒の記憶からは薄れていった。世の中には刺激的な事件がいつも溢れていて、私達はいつも記憶を上書きしていかないと時間の波に乗り遅れてしまう。
ただ当の本人は警察に事情を話したり教師に叱られたりと大変だったらしい。日頃の行いが原因じゃない? と私が皮肉を込めると、彼は意外にもおかしそうに笑った。
きっと彼は探偵でいることをやめない。それは私の望み通りの未来で、私の心が休まる日はない。それでも私は江戸川君の傍にいたかった。本当はずっと前からそうだった。
「灰原さん」
放課後、教科書を鞄につめていると、いつかと同じようにクラスメイトの女子三人に呼び止められる。
「何?」
「あの、江戸川君と付き合ってるって、本当?」
弱々しい言葉でも、私を見る視線はとても鋭い。
その質問に私は返事を迷う。付き合うって言葉を英語に変換してみたけれど、やっぱりよく分からない。そもそも私と江戸川君の関係性って何だっただろうか。
――俺と付き合ってよ。寂しそうに笑う黒羽君の顔が浮かんだ。あの時は即答できたのに。
「ねぇ、なんで黙ってるの?」
先ほどとは違う女子生徒が口調を強くし、私に詰め寄った。
何かを誤魔化しているわけじゃなく、本当に分からないのだ。三人の剣幕にどう答えたら一番丸く収まるか考えていると、教室のドアが開いた。
「灰原、帰ろうぜ」
なんてタイミング悪く現れるのだろうか。彼女達の質問をここぞとばかりに肯定するような登場の仕方、今時ヒーローでもそんなに分かりやすくしない。
「あのさ」
学ランの上にマフラーを巻いた江戸川君がゆっくりと歩いて来て、私の隣に立ち、女子生徒を見下ろした。
「こいつ、俺がずっと好きで、やっと手に入れたんだ。だからいじめないでやって?」
はっきりとした江戸川君の物言いに、なぜか彼女達が顔を赤くして、曖昧に返事をして鞄を持って教室から出て行ってしまった。残された私は嘆息し、江戸川君を見上げた。
「…そうやって牽制するのはやめてって、何度も言ったでしょう」
「だって、誰かさんが肯定しないし?」
口をとがらせて、江戸川君は私を睨み、私の手を取って歩き出した。
江戸川君の部活のない日にはこうして一緒に帰る日が増えた。だから付き合ってるだの何だの訊かれるようになってしまったのだろう。まったく中学生というものは幼くて可愛いものだと私は手の温もりを感じながら、思わず笑ってしまった。
「何笑ってるんだよ」
校舎を出ると風が冷たい。気付けばもう十二月になっていた。
「だって、黒羽君と同じだなって思って」
「…おまえなぁ」
どんな方法を使ってでも守ろうとする姿は、二人とも同じだった。まるで正反対の存在なのに、なんだか不思議だ。
寒さに小さくくしゃみをした私を見て、江戸川君は自分に巻いてあった白いマフラーを私の首に巻き、正面から私を睨んだ。
「あいつの名前を出して俺が正気でいられるとでも思ってんのか?」
「あら、あなたが正気じゃない時なんてあるの?」
私が勝ち誇ったように微笑むと、江戸川君は私のマフラーを掴んだまま、そっと顔を寄せた。唇に一瞬温もりが通う。私が目を閉じるのも忘れて江戸川君を見つめていると、江戸川君は頬を少し赤くして、視線を逸らし、
「おまえといるといつだって正気じゃいられねーよ」
マフラーから手を離して、私の前を歩き出す。私は立ち止まったまま唇の温もりを確かめるように手で触れた。まるで本物のコイビトのようだと思った。
自分の実年齢を考え、幼いのは中学生よりもむしろ私の方だったかもしれないと考え直す。
私は彼の心の中を知らない。幼馴染への恋心はどこに流れて、そしていつから江戸川コナンとして生きる覚悟を持ったのか、きっと考えても答えは出ないし、知らなくてもいい真実なのかもしれない。
「灰原、何してんだよ」
振り向いた江戸川君が声をあげ、私は彼を追いかけて走り出した。
冬の寒空の下。広い世界の中。めぐり逢える世界で時には孤独を思い、過去にあがいて、傷ついてでも、私は江戸川君と一緒に生きて行く。
新しい風が吹き抜けるこの場所で。