3.冷たい花
グラウンドにいる部活中の生徒達の声の隙間に、重たい沈黙が流れた。
四年前に初めて伝えた好きだという言葉は、それ自体が空気に溶け込んでしまったかのように彼女は何のリアクションも起こさず、今となってはあの出来事はなかったことになっていた。だけど。
――やっぱり俺、おまえが好きだ。
二度目の告白をした今、彼女は表情をなくしてうつむいた。少しでも俺の言葉に意味があったのだろうか。毛先にペンキを含んだブラシを持つ手が重い。
「…江戸川君」
灰原の声に、俺は下を向いていた頭を上げた。灰原はうつむいたまま言葉を続ける。
「もういいのよ。私にこだわらなくたって」
「…何言ってるんだよ」
黒羽快斗をコイビトだと宣言した時のように、俺は灰原の言葉を理解できない。灰原はゆっくりと顔をあげて俺を見た。
「江戸川君は優しいから、私が解毒剤を完成させなかったことを気にしていると思って、そんなことを言うんでしょう」
優しいわけがあるか。俺は言葉を返せない。
本当は灰原の気持ちを無視してその身体ごと抱きしめて、身ぐるみ剥がして触れない場所なんてないくらい全身に口づけを落として、もう誰の目にも止まらない場所に閉じ込めておきたい。今この瞬間だって、誰にも言えないような残酷な感情に蝕まれているというのに。
ここで俺が否定しても、きっと灰原は信じない。そして俺達の距離は平行線を辿ったままだ。
確かに彼女は罪悪感に縛られているのだ。それの解き方を俺は知らない。もしかしたら黒羽快斗なら知っているのだろうか。だから灰原は彼と一緒にいるのだろうか。
結局灰原にとっては俺の言葉は意味を成さず、諦めた俺はペンキのバケツを持って立ち上がった。少し時間をかけすぎたようだ。
ぶっ潰した組織とか、解毒剤とか、そんなの関係なく俺はおまえが好きだよ。
そう言い切れるはずがなかった。過去の時間は確実に俺達に作用している。
「行こう。そろそろ集合の時間だ」
俺が低い声でつぶやくと、灰原も立ち上がった。秋風が目に染みた。
いつの間にか手の甲に白いペンキがついていたようだ。委員会が終わった後、廊下に備え付けられている水道で手を洗ったが、油性のペンキが当然落ちるわけがない。皮膚の線維にまで入り込んでこびり付いたそれは、まるで行き先を失った感情のようだ。
手先が冷えてきたので、俺は諦めて蛇口をまわした。
そこへ、ポケットの中の携帯電話が鳴り、俺は手を体操服の裾で適当に拭った後で電話に出た。
『あ、江戸川君?』
受話器の向こう側の声の主はよく知る刑事だった。話によると、近くで厄介な殺人事件が起き、俺の手を借りたいとの事だった。工藤新一だった頃に比べて格段に減ってはいるけれど、今でもこうして時々呼び出されることがある。
いつかの高木刑事の言葉が俺に警告を鳴らすけれど、警察が解決できないという一筋縄ではいかない事件に対しての好奇心は今も健在で、俺はすぐに行くと返事をして電話を切った。
「よっ、江戸川」
肩を叩かれ、振り向くとサッカー部の一人が立っていた。
「何、今の電話? また警察からお呼びがかかったのか?」
「ああ。実行委員もあるのに部活にも迷惑かけて、悪いと思ってるよ」
手についたペンキを隠すように俺が言うと、彼は白い歯を見せて笑った。
「よく言うぜ。エース候補がさ」
チームメイトの言葉に、俺は自分の立ち位置を再確認する。いつまで経っても水道水で濡らした手の先に温度が通わないままだ。