2-7

 組織を壊滅した日から気力を失ってしまったように、私は動けないでいる。
 研究を続けていた地下室を思い出すだけでつらい。私は部屋の布団にもぐったまま、ただひたすら時間が過ぎるのを待ち、気付けば一週間以上が経っていた。
 江戸川君が意識を取り戻したと聞いて、嬉しい反面困惑した。解毒剤を作れなくなった今、彼にどんな顔をして会えばいいというのか。

「哀チャン、いる?」

 いつの間にか博士がいる時間でも堂々と阿笠家に上がり込むようになった黒羽君は、あれから毎日私の様子を見に来る。正直鬱陶しいけれど、悪い気はしない。博士や少年探偵団の子供たちなら追い返してしまうところを、彼なら私の懐に入り込みそうになるのを許してしまう。何かを共有してしてしまったからだろうか。
 黒羽君に手を引かれて、私は約十日ぶりに外に出る。カーテンの閉め切った部屋の中にいたら分からなかった時間が、西に傾いた太陽の光を見て、今が昼すぎであることを知った。季節は秋だというのに空の色が眩しすぎて焦がされそうになる。本来罪人の生きる場所は、光の当たらない場所だ。

「江戸川クンがさ」

 黒羽君の運転する横の助手席で私は静かにその言葉を聞いた。

「おまえのせいじゃねーよ。って、伝言」

 その伝言の部分だけ江戸川君の声色で同じ口調で話すのはずるい。まるで横に江戸川君がいるみたいだ。組織を壊滅しに行った時に手と手の温度だけを感じたように。
 窓の外の流れる景色を見ながら瞬きをすると、目から涙が出た。止まる事のない生ぬるい液体が頬を流れた。
 江戸川君が入院している病院に着き、駐車場に車を停めた黒羽君に再び手を引かれて玄関へと向かう。周りには子供を連れた母親や、老人を乗せた車椅子を押している中年の男性、具合悪そうに背中を丸めて歩く若者、まるでテレビドラマで見るような病院の景色が広がっていた。黒羽君に手を引かれて歩く私も、病院を嫌がるただの子供にしか見えないのかもしれない。
 黒羽君の手は大きい。だけど江戸川君の手に触れた時のほうが何倍も大きなものに包まれたように感じていた。こんな時でさえ彼と一緒にいたことを思い出す。もう近付かない事を覚悟したのに。
 薬品の匂いのする廊下を歩き、やがて病室に着いた。開いたままのドアの向こう側。冷や汗が背中を流れた。
 逃げたい。
 元に戻れなくなったと絶望する彼の顔など見たくない。許されなくて当然なのに、私は何より彼に恨まれる事が怖かった。それまでの温かい生活から抜け出せないままだ。
 黒羽君から手を離そうとしても、ぎゅっと掴まれたままで逃げられない。

「江戸川クン」

 そんな私を知っていながら、黒羽君は私を引っ張るようにして病室に足を踏み入れた。
 簡易カーテンの向こう側のベッドの上に、小説を手に持った江戸川君がいた。

「灰原…!」

 黒羽君を睨みつけていた江戸川君が、私を見るなり表情を変えた。見たこともないほどの優しい顔に、私は喉がつまった。

「ごめんなさい…」

 組織壊滅をし、運ばれた先の病院で江戸川君が生きていると実感した時のように、私がその場に崩れそうになるのを黒羽君が支えて、どうにか私は立ったままでいられた。

「…黒羽サン、外してくれませんか?」

 江戸川君の不機嫌そうな声に、私はびくりと肩を震わす。黒羽君だけその場に似合わない軽快な笑い声でうなずいた。

「じゃあね、哀チャン」

 私の手を離して、廊下の向こう側へと消えて行く。待って、江戸川君と二人きりなんかにしないで。

「灰原」

 黒羽君を追いかけそうになる足を、江戸川君の声が止めた。私は恐る恐る振り返る。江戸川君は先ほど見せた顔で、手招きをした。

「おまえ、無事なんだよな…」
「…そうよ」
「怪我は?」
「ないわ」

 彼のパジャマの胸元からは痛々しい包帯が見える。細い首、小さな手。それは本来の姿のものとはまるで違う。彼はこの先ずっとこの姿で生きていくのだ。その運命が分かっていて、どうしてそんなに笑っていられるんだろう。

「灰原、もっとこっち来て」

 身体を無理に動かそうとして顔をしかめる江戸川君を見たくなくて、私はゆっくりと足を前へと踏み出した。彼の手元には彼の愛する探偵の小説があった。作者はコナンドイル。彼の名前の由来だ。
 私がベッドの傍に寄ると、江戸川君は私を見上げて目を細めた。

「あいつにも伝えたけど、おまえのせいじゃない。それに俺、戻らなくてよかったんだ」

 突然何を言い出すんだろう。

「もう三年も経っているしさ。いまさら工藤新一には戻れねーよ」

 まるで解毒剤を作れなくなってしまった事に正当な理由をつけるような言い方をして、そんなに優しく笑わないで欲しい。
 許されない事を恐れたのに、許される事に違和感を覚えた。何があっても諦めることをしなかった彼が、どうして。

「ところでさ」

 突然不機嫌な声を出して、江戸川君は言った。

「あの黒羽って奴。なに?」

 口をとがらせる江戸川君の表情ひとつひとつに疑問を持ちながら、私の口は勝手に動いた。黒羽君と過ごした短い時間を思う。

「…コイビトよ」

 言葉にして、江戸川君との間の空気が一気に冷めた。怪訝に眉根を寄せた江戸川君を見て、どこか優越感すら覚えてしまう。

「おまえ、何言ってんの?」
「…あなたこそ、何を言ってるのよ」

 胃の底から絞り出すように、私は声をあげる。

「あんなに工藤新一に戻る事を望んでいたじゃない! 私はその為に研究を続けたわ。あの時データだってすぐ目の前にあった! それを手に入れられなかったからと言って簡単に諦めないでよ! 戻らなくてよかった、なんて…」

 一気にまくしたてて、体力を失っている私は息切れを起こして彼のベッドにすがるように座り込んだ。
 閉じ込めていた感情がこんなところで吐露されてしまった。本当に泣きたいのは江戸川君だ。私が先に泣くのはずるい。頭では分かっているのに。

「灰原」

 そんな感情を微塵も見せないように、穏やかな声で江戸川君が言った。

「おまえは勘違いしてる。確かに昔の俺は元に戻りたくて仕方なかったけれど、今は違う。…勝手なことを言ってると思うけど、」

 江戸川君の声に、私はベッドのシーツを握り、座り込んだままゆっくりと顔をあげて江戸川君を見上げた。江戸川君の手が私の頭を撫でる。やっぱり、黒羽君の手とは違う。

「俺、おまえが好きだ」

 音楽を奏でるように自然に落とされた言葉に、私は息を飲んだ。江戸川君の真剣なまなざしから視線を逸らす。
 江戸川君を信じないわけではない。だけど何をどう聞いても、この状況を正論化するものにしか聞こえない。何より彼は幼馴染を想っていたはずだ。

「…黒羽君が待ってるから、行くわ」

 私は立ち上がって、江戸川君の顔を見ないまま病室を出た。ふらつく身体で、絡みつく足を無理やり動かして走る。近くにいた看護師が「廊下を走らないで!」とまるで小学校の教師のように声を上げた。それでも私はロビーまで走った。
 ロビーのソファーで新聞を読む黒羽君を見て、ようやく立ち止まる。

「早かったね、哀チャン」

 私を見つけた黒羽君が、何かを彷彿させるような顔で笑う。私は肩で息をしながら彼を見た。
 もう解毒剤は完成しない。江戸川君が江戸川君らしく生きる為に、私はこの罪も、先ほど聞いた言葉も、全てに蓋をして生きていく。