2-6

 初めに働いたのが嗅覚だった。俺は薬品の匂いが籠る部屋にいることを自覚し、ここが慣れた部屋ではない事を理解した。
 長い事眠っていたように思う。瞼が重たくて開かない。次第にじわじわと聴覚が働いてきた。

「コナン君」

 ひどく懐かしい声に、俺はぼんやりと意識を取り戻した。見覚えのない天井が目に入り、一体ここはどこだろうとのんきに考える。

「コナン君!」

 瞳だけ動かすと、蘭が眉根をひそめて俺の顔を覗きこんでいた。

「…蘭ねぇちゃん」

 いつの間にか呼び慣れた愛称を口にすると、その振動で肩やお腹に痛みが走った。―――思い出した。

「はいばらは…?」

 身体が自由に動かなくて、うまく声も出ない。言いたい事聞きたい事全てを声に吐き出せない焦燥感だけが募る。

「哀ちゃんは無事よ」

 蘭の声が少しずつ涙声になって行く。彼女の泣く瞬間を、俺はこの数年の間に何度目にしただろう。

「無茶しないでって言ったじゃない…。新一もいなくなって、コナン君までいなくなったら私はどうすればいいの…」

 蘭の瞳からぽたりと滴が落ちた。ごめん。俺は口の中で声にならない言葉をつぶやく。――ごめん、蘭。俺、灰原が好きなんだ。
 泣いている蘭の目の前で、灰原の無事を聞いて安心してしまった。



 意識を取り戻した後には鬱陶しいほどの検査が待っていた。身体を一人で動かせない今は自由に行動することもできない。
 一通りの検査を終えて、再びベッドの中で思考を巡らせる。目を覚ました日に警察関係者とFBIの顔見知りがそれぞれ見舞いに来て、現状を報告してくれたけれど、誰も特筆すべきことは語らなかった。結局薬のデータは手に入らなかったのだろう。
 不思議な事に、俺は穏やかな気持ちで、むしろデータが手に入らなかった事に安堵していた。
 今日も病室のドアが開く。俺が意識を取り戻してから、蘭や博士、服部、少年探偵団の元太達が見舞いに来てくれたが、肝心の灰原だけが姿を見せない。本当に彼女は無事なのだろうか。
 不安が募ってきた頃、姿を見せたのは灰原ではなく、見た事のない男だった。被ったキャップ帽からはみ出した髪の毛が癖がかっている。

「コンニチハ」

 男は口元に笑みを浮かべて、キャップ帽を取った。俺を見て目を細める。やっぱり見た事のない男だ。

「…おにいさん、誰?」

 悔しい事にまだ起き上がることの出来ない俺は、それでも彼を睨みつける事くらいは出来た。そんな俺の様子を見て、彼はおかしそうに笑った。

「元気そうだね、江戸川クン。俺は黒羽快斗。哀チャンのオトモダチです」

 そう名乗った男――黒羽は、病室に入って勝手に備え付けの冷蔵庫を開けた。

「俺おすすめのケーキを買って来たんだ。後で食べてね」

 がさごそと音を立てる彼を横目に見ながら、最近やたらと携帯でメールをしていた灰原の様子を思い出した。

「…灰原の友達?」
「そう。聞いてない?」
「知らねーな」

 他人相手に子供の振りをする余裕もなかった。それより何よりも、俺が知りたい事は。

「あいつ、無事なのか?」

 俺が訊くと、黒羽は見舞い客用に丸い椅子に腰をかけて、俺に微笑んだ。ころころと表情を変える様子が癪に障る。

「無事だよ」

 彼の声に安堵よりも先に沸々と苛立ちを感じた。
 だったらどうして姿を見せないのだろう。俺の考えを読み取ったように、黒羽は言葉を続ける。

「何か言いたそうだね」
「別に…」
「俺さ。最近、哀チャンと仲良くさせてもらってるんだ」
「…何をどうしたら、あいつと知り合って仲良くなるんだ?」

 二十歳くらいの男と灰原の接点なんて、組織関係を除けば見当たらない。しかし彼が組織に通じていない事はなんとなく感じていた。でもそれとはまた別の危うい雰囲気を持っている。それを上手くひた隠しにされていて、俺はとどめの一言を準備できない。

「本当に何も知らないんだね。俺、哀チャンのオトモダチっていうのは嘘で、本当はコイビトなんだ」
「へぇ、それはご立派なことで」

 彼の笑うに足らない冗談に、俺は鼻を鳴らした。冗談と分かっていても胸糞悪い。そんな俺の様子を見た黒羽は何を考えているのか分からない表情のまま席を立った。

「帰るのか?」
「うん。ここにいてもこれ以上君と話す事なんてないし」
「じゃあ、あいつに伝えといて」

 自力で動かない身体に腹を立てながら、俺は黒羽を睨み、言葉を発する。
 早く灰原に会いたかった。