運ばれた救急外来の部屋の一角で、ベッドで毛布をかぶって膝を抱えていると、簡易カーテンが開く音がした。
「哀チャン…」
聞き覚えのある声に顔を上げる。その声は数回しか会った事のない、だけど中身だけはよく知っている高校生探偵のものと同じで、余計に私は涙を流した。
「…黒羽君」
「ごめん、哀チャン。もっと早く助けられたらよかった…」
「そんなこと、ないわ…。あなただって怪我をしているじゃない」
FBI捜査官に扮した黒羽君に助けてもらわなかったら、私達は今頃殺されていた。怪盗キッドが命の恩人になってしまった。約束通り、本当に守ってくれたのだ。江戸川君だけではなく、私まで。
あれからの事はよく覚えていない。それを言うと、黒羽君は「それでいいんだ」と小さく微笑んだ。彼が痛めた腕には包帯が巻かれていて、痛々しい。
黒羽君は静かに私の隣に座った。出逢ってからまだ二か月ほどしか経っていないのに、隣にいることが当然になってしまった。博士の外出を狙っては阿笠家に侵入し、他愛のない会話をしてから姿を消す日々が日常になっていた。
これまで私をまとう世界には博士と江戸川君と少年探偵団しかいなかったので、黒羽君の存在は新しい風のように爽やかに私の世界を照らした。そして江戸川君には持っていない闇が、私に共鳴を求めた。まるで陰と陰のように。
黒羽君の存在を隣に感じて再び膝を抱えて目を閉じていると、またカーテンが開いた。
「哀ちゃん!」
やや興奮気味に声をあげて、江戸川君の幼馴染が顔を見せた。私は毛布を頭から外し、ベッドから降りて病院内の簡易スリッパを履く。
「哀ちゃんは、怪我は大丈夫なの…?」
「ええ」
私だけが助かってしまった。彼女は黒羽君の存在に一瞬眉をしかめたけれど、それどころじゃなかったようだ。
私と黒羽君は処置室に案内された。
処置室では酸素ボンベを付けられた江戸川君が眠っていた。その穏やかな寝顔に私は再び涙が出た。
医者から、命に別状はありません、とまるでドラマの科白のような言葉が無機質に告げられ、それでも私も黒羽君も幼馴染の彼女も安堵のため息をついた。
ぴ、ぴ、と心臓の音がモニターに示されている。―――生きている。私はその場に崩れるように冷たい床に座り込み、泣いた。両手で顔を覆ってひたすら泣いた。
医者や看護師が冷静な視線を送る中、黒羽君は黙って隣にいてくれた。
大した怪我をしていない私は入院をせず、深夜に帰宅する事となった。迎えに来た博士が涙ぐんで私を抱きしめた。
「無事じゃったか…」
「ごめんなさい、博士」
いつもはメタボだ何だと文句を言ってしまうその腕の太さが、今は包容力として今まで感じた事のない温かさが私の心に沁み入った。
「ところで哀君、その人は?」
「黒羽君よ。ちょっとしたきっかけで、協力してくれたの。でも江戸川君には秘密」
私が涙を拭いながら言うと、
「黒羽です」
救急外来の入口で、私の後ろで猫を被ったように黒羽君が挨拶をし、博士はまるで父親のように警戒心を強めた。
「博士、危険な人じゃないし、博士が心配するような関係でもないわ。でも怪我をしているの。私達を守ってくれたのよ」
結局黒羽君も博士のワーゲンに同乗した。名目上、初めて阿笠家に黒羽君を招待することになったのだ。
私はひどく疲れていた。リビングのソファーに倒れ込むようにうなだれ、その横にいつものように黒羽君が座った。
博士が江戸川君が遊びに来た時と同じように、コーヒーを淹れてくれる。当然のように今日も砂糖もミルクもないけれど、さすがに今日ばかりは黒羽君も何も言わなかった。キッチンの片隅にあるスティックシュガーの存在を私がぼんやりと考えていると、
「哀チャンはどうして泣いているの」
苦いはずであろうコーヒーをすすりながら、黒羽君はぽつりとつぶやいた。
博士は話の邪魔になると思ったのか、自室にこもった。
「…彼を、工藤新一に戻す手掛かりを失ってしまったわ」
かすれた声で私はつぶやいた。目の前で広がった炎を思い出す。
この身を焼いてでも手に入れなければならなかったのに。
「果たして名探偵がそれを望んでいたのかな」
「望んでいたに決まっているわ」
そうでないと困るのだ。私はその為に生きていたようなものだった。解毒剤を欲しがっていた過去の江戸川君を思い出す。念の為だと渡したものでさえ服用してしまい、トラブルを起こした彼を見かねながら、一時的にでも元の姿に戻った喜びを表情に出した彼を私は忘れない。そしてその度に私は思い知ったのだ。彼の人生を奪ったのは私なのだと。
再び私の頬に涙が流れる。
私のせいで、いつも江戸川君は命に脅かされている。そしてもう二度と戻れなくなってしまった。
「黒羽君…」
「何?」
「これからも、江戸川君を守って…」
私では力不足だ。今日こそ思い知った。守るつもりで逆に守られてしまった。
でも黒羽君ならきっと守ってくれる。懇願するように彼を見上げると、黒羽君は困ったように笑った。
「哀チャンはいつも名探偵のことばかりだね」
どこか寂しそうに笑う表情が、頭に刻まれた。
「もっと自分を大事にしなよ」
「…そんな事できるはずないわ」
「それなら、今度は俺のほうが条件をつけるよ」
包帯が巻かれた腕をあげて私の髪の毛先に一瞬だけ触れ、黒羽君は微笑んだ。
「俺と付き合ってよ」
彼の言葉に、私は涙を止めてしまった。まじまじと彼の表情を見るけど、黒羽君はいたって普通だ。いつもと同じ、悪戯を誘うような笑みで、その心が見えない。
「…あなたロリコンなの?」
「違うよー」
冗談のように笑う黒羽君が何を考えているのか分からない。だけど、彼なりに何かを守ろうとしていることだけは分かった。
「分かったわ」
それで黒羽君が江戸川君を守ってくれるというのであれば、条件など何でもいい。
今も目を覚まさない江戸川君を思う。窓の外ではあの日と同じ、雨が降り始めていた。