午後六時、シャツに学ランという格好では寒くなってきた。そろそろマフラーも必要なのかもしれないと思いながら学校から帰宅していると、聞き覚えのある声がかかった。
「コナン君?」
振り向くと、秋らしいニットワンピにジャケットを羽織った元幼馴染が立っていた。
「…蘭ねぇちゃん」
「久しぶりね。元気?」
「うん」
もう中学二年生だと言うのに、俺はこの幼馴染の前では今でも芝居がかった受け答えしかできない。でも今ではそれが自然だったし、蘭と話す方法としてはそれが一番楽だった。
「蘭ねぇちゃんは仕事帰り?」
「そうよ」
華奢な手元を見ると、食材がたくさん詰め込まれているスーパーの袋で重そうだ。
蘭に会うのは久しぶりだった。俺は中学校入学と同時に元々いた工藤家で一人暮らしをしていたし、蘭はこの春に結婚して探偵事務所の近くで暮らしている。出席した結婚式でこの世の幸せを独り占めしたような彼女の笑顔を見て、俺は素直に嬉しかった。
命を賭けてでも守りたいのは今も同じなのに、彼女を好きだという感情は不思議なほど穏やかに過ぎ去ってしまった。
「コナン君は遅いね? 部活の帰りなの?」
「えっと、文化祭実行委員会になっちゃって」
俺が笑うと、蘭は目を丸くしたあと、懐かしそうに微笑んだ。
「文化祭かぁ。もうそんな時期になるんだね」
いつの間にか俺は蘭の身長を追い越していた。昔と変わらない長い黒髪が冷たい風に揺られて、俺も懐かしい気分になる。胸の奥に封印した感情が、形を変えて俺を襲う。
「都合が合ったら遊びに行ってもいい?」
「もちろんだよ」
もうとっくに日が沈んで辺りは暗いというのに、蘭の表情が眩しくて、その手に持つ袋には幸せの形が詰まっているようで、俺は少しだけ視線を落としてアスファルトを見つめながら微笑んだ。
二度目の中学校生活の中でも驚かされる事が時々ある。
俺はなぜ昇降口の柱をペンキ塗りなんてしているんだろうか。ペンキ特有のシンナーの匂いが辺りを充満する。軽く咳き込みながら立ち上がり、周囲を見渡す。ほとんどの生徒が制服姿で下校する中、まるで用務員にでもなったような気分だ。その光景の中で、俺と同じ体操服で花壇近くの柱を塗っている灰原を見つけた。俺はペンキ入れを持って花壇まで歩いた。
文化祭実行委員は二十人近くいて、ペンキ塗りをするのが五人程度。文化祭当日には保護者や来賓も入るので、古びた校舎を少しでも綺麗に見せたい為の作業らしい。
「灰原、無理すんなよ」
俺が言うと、俺が近付いたことにも初めて気付いたように、灰原は振り返った。
「無理はしてないけれど…」
「おまえがそんなに夢中に作業しているのって、かなりレア」
「あら、私はこういう地味な作業、結構好きよ?」
結構好きよ?
灰原の声で脳内リピートする。誰の事を言われたわけでもないのに、脈打つのが早くなり、誤魔化すように俺はブラシを手に持った。
「高いところは花壇によじ登ってまでやらなくていいって」
灰原の代わりに、俺は手を伸ばして高い場所のはがれたペンキを隠すように、上から塗りつぶす。黄ばんだ白からまっさらな白へ。何かに嘘をついているような作業はどこか後味が悪い。それもこの匂いのせいだろうか。
塗り終わり、ブラシに気をつけながら腕を下げて振り返ると、灰原がじっと俺を見上げていた。何だろう。彼女にこんな風にまっすぐ見つめられたのはいつ以来だろう。
「背、伸びたわね」
「え…? あ、ああ…」
突然の言葉に、一瞬何を言われたか分からなくてどぎまぎした。
「何の異変もなく成長できてよかったわ」
その言葉にどきりとした。
平和な日常で忘れかけていた事を、灰原は容赦なく突き刺してくる。俺たちは様々な事を偽って生きている。俺の感情とはまた別の部分で、俺と灰原は繋がっているのだ。まるで共犯者のように。
俺はしゃがみ込んで灰原を見上げた。西から射す太陽は冬に向かってどんどん柔らかい光へと変わって行くのに、俺が持て余すものは行き場所を知らないままだ。
この気持ちもいつか、蘭への想いと同じように、移り去っていつかは消えて行くのだろうか。その方が楽なのかもしれない。黒羽快斗の顔が浮かび、俺は眉間に皺を寄せる。目の前の景色がぐらぐらと沈んでいく。
「江戸川君、どうかした?」
そんな俺の気持ちも知らず、灰原は無神経に俺の顔を覗きこんだ。彼女は時々距離感を間違える。悪意がないのは罪だ。緑がかった彼女の瞳に吸い込まれそうになる前に、俺は視線を足元に落とし、息を吐いた。
頬を滑る風が冷たい。
「やっぱり俺、お前が好きだ」
その言葉に灰原は表情を失くして、俺と同じようにうつむいた。
それは、二度目の告白だった。