円谷光彦の憂鬱


 自分で述べるのもなんだが、本来の自分は真面目な部類に入ると思っている。遅刻は許されないと教えられてきたし、宿題は早めに終わらせるようにしている。努力は実るものだと信じているのだ。ちなみに七年前、努力すれば報われるとは限らないという事を知る羽目になったのはまた別の話だ。
 兎にも角にも、真面目な性格なのでもちろん夏休みの宿題も早めに終わらせ、夏休み最終日くらいは好きな本でも読んでのんびり過ごそうと考えていた、そんな矢先の事だった。

「光彦、助けろよ~」

 大きな図体で情けない声をあげる幼馴染と、

「光彦君、どうしよう!?」

 昔から変わらないキュートさで頭を抱える幼馴染を見て、光彦は大きくため息をついた。しつこいがもう一度言おう。光彦は真面目で、そして冷徹になりきれないのだ。幼馴染の頼みとあっては、断れるわけがなかった。



 そんなわけで、想像通り宿題が終わらないと円谷家に泣きついて来た二人の幼馴染、元太と歩美の宿題の残りを見て、光彦は唖然とした。現在、夏休み最終日の午前9時。始業式まで二十四時間を切っているというのに、物理的に考えてもこの人数で終わらせるには不可能な量が目の前に積み重なっている。

「…毎年毎年、学習能力がないんですか君達は」

 低い声でつぶやけば、彼らはびくりとおとなしくなり、光彦の顔色をうかがう。その視線を見るのは何度目になるだろうと考え、そういえば眼鏡をかけた賢い幼馴染が海外に転校した後からだな、なんて思う。
 彼がいた時はおいしいところを全て持っていかれて自分の持っている力なんて何にも役に立たなかったように思うのに、いざ彼がいなくなるとそれはそれで大変だ。せめてもう一人の聡明な幼馴染を呼ばなければ!
 と、呆れるほど間抜けで愛しい幼馴染達の面倒を自分一人で見られる自信のない光彦は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、最後の手段である灰原哀に電話をかけた。
 コール音が響く。今でも同じ中学に通う幼馴染四人で集まる事は以前に比べて減ってしまったけれど、それでも少年探偵団と呼んだこの仲間を、光彦はとても大切に思う。
 いつもに比べて長いコール音を聞いて、そういえば彼女があまり朝に強くなかった事を思い出し、電話を切ろうとした時だった。

『もしもし…?』

 受話器から聞こえてきたのは、思っていたよりもずいぶんと低い、そうだ、これは男の声だ。光彦は眉を潜め、スマートフォンを耳から離して画面を見る。そこには間違いなく灰原哀と表示されていて、かけ間違いではないはずだった。

「…もしもし」

 恐る恐るつぶやくと、

『え…、あれ? …光彦か?』

 自分の名前を呼ばれ、返事をしようと空気を吸うが、上手く言葉が出ない。家族以外の大人の男の声で、自分を光彦と呼ぶ人間なんて一人しか身に覚えのないのに、脳が全力で拒否する。というのに。

『ああ、悪い。間違えた。…哀、おまえに電話だ起きろ』

 光彦の心情などお構いなしで電話の相手は今度こそ光彦が求めていた幼馴染を親しげに呼び、更に遠くで「え……何よ、え、電話? 誰……円谷君!? 工藤君あなた人の電話を何勝手にとってるの?!」とひどい雑音とともに聞き覚えのある彼女の、しかし光彦が普段聞く事のないような焦った声が聞こえ、さらに光彦は動揺した。
 残暑が険しく残りながらも確実に秋の風が爽やかに吹き始めた、夏休み最後の朝、午前9時。

『もしもし円谷君ごめんなさい! 何か用だった!?』

 彼女の声がいつもよりもかすれて聞こえるのは、受話器を通しているせいなのか、寝起きだからか、それとも「工藤君」が隣にいるからか。

「…いえ、なんでもないです」
『何でもないってことはないでしょう、円谷君』
「……いえ、もう本当に、何でもないんですすみません」

 自分は何も悪いことなどしていないのに謎の謝罪とともに電話を切った光彦を、テーブルの向こう側に座っていた元太と歩美が不思議そうに見つめた。

「今のなんだったんだ光彦…?」
「哀ちゃんに何かあったの…?」

 何かあったなんてものじゃない。これは事件だ!
 しかし人間の浅はかさやしたたかさなど何も知らないような、とても無垢な瞳を向けて来る二人に、光彦は何も言えなかった。言えるわけがなかった。
 灰原哀が暮らす阿笠邸の隣に住んでいるかの有名な名探偵、工藤新一。彼女が一緒にいた男が誰かなんて、推理なんてしなくたってすぐに分かる。そしてこんな朝に、携帯を間違えて取ってしまうくらいの距離で、一緒に眠るような関係なんてどんなものか、光彦は知っている。
 そばかすがかった頬が赤くなりそうなのをこらえながら、目の前に広がる宿題の山を見て再びため息をついた。
 幼い頃、大人達による混沌とした場面に出くわし、その度に胸を痛めた事もあった。それでも、聡明な二人の幼馴染に支えられて守られて、自分なりの正義感を見つけて真っすぐに真面目に生きてきたつもりだというのに。
 こんな事で動揺するなんて、と自分自身の未熟さを呪う。――コナン君事件ですよ!! 窓から見える空は恨めしいほど青く、同じ空の下で過ごしているはずの遠い幼馴染に心の中で叫びながら、光彦は二人の宿題を消化するべく、教科書を開いたのだった。



(2016.11.12)
★おまけもあります→工藤新一の郷愁