シャンデリア


 しばらく海外で暮らすことになった、と彼が言った。
 哀はセーラー服の襟元を指で弄びながら、ゆっくりと顔をあげた。工藤邸の生活感のないリビングの壁にかかった時計が示す時間が午後11時。久しぶりに会ったと思えば、また唐突な事を言い出したものだ。
 新一はネクタイをほどいてジャケットを脱ぎ、ソファーの上に置く。その仕草を目に焼きつけながら、哀はソファーから立ち上がった。

「工藤君、何か食べる?」
「…おまえ、俺の話聞いてた?」
「聞いてたわ」

 哀は新一の前を通り過ぎ、そのままアイランド式のキッチンでコーヒーを淹れる。次第にコーヒーの香りが部屋に漂ってきた頃、新一も哀の隣に立ち、キッチン台に置いてあるコーヒー豆の袋を手に取った。

「これ、博士からもらったコーヒー?」
「ええ」
「いい香りじゃん」

 無意識なのか哀の髪の毛に触れながら、新一は言う。その手は次第に哀の肩に触れ、哀を抱き寄せるように力を込める。

「ちょっと。コーヒー淹れるのに危ないから離れてて」
「…おまえさぁ」

 新一は呆れるように哀を睨み、おとなしくソファーに腰をかけた。

「もっとリアクションねーのかよ」
「期待には添えないわ」

 哀はマグカップを持って、新一の隣に腰をかける。新一はコーヒーを飲み、美味いと一言こぼし、マグカップをテーブルに置いて、今度こそ哀を抱きしめた。
 久しぶりの新一の匂いだ。哀は目を閉じて新一のシャツを掴んだ。
 …だって、どんなリアクションをとればいいというのだ。海外で暮らすって何? 急に何を言ってるの? どのくらいの期間なの? 私の事はどうするの?
 一瞬にしてさまざまな言葉が脳裏をめぐり、それらはあっけなく喉の奥へと飲み込まれてしまった。そんな感情を吐き出せるほど子供でもなく、一緒についていくと言えるほど大人でもなかった。精神年齢はともかく、世間上では哀はただの中学三年生なのだ。
 ジャケットを脱いだ新一はシャツ一枚で哀を抱きしめていて、だから体温がよく伝わった。哀は少しだけ離れて、指でそのシャツを辿る。新一がくすぐったさを誤魔化すようにふっと笑みをこぼした。

「誘ってんの?」
「…そうかもね」

 そんなつもりなどなかったのに、哀は新一のシャツのボタンを一つずつ外す。意外そうに目を丸くした新一の顔を見ることも出来ない。シャツの隙間から何度触れたか分からない肌が見えて、哀は一度飲み込んだ感情を見ない振りしてその肌に触れた。




 その宣告から一カ月が経った日曜日の夕方。
 あの日から聞いた新一の話のひとつひとつを哀は整理していた。仕事の関係で海外で暮らす。拠点はアメリカ。いつ日本に帰るか分からない。
 淡々とした新一のその時の口調も思い出し、胸の奥側がぐっと痛くなる。

「大丈夫か?」

 隣を歩いている新一が哀に声をかけた。いつの間にか繋がれていた手に、哀は力を込める。

「ええ」

 ここは空港で、スーツケースを持った人々で溢れ返っている。哀は黙ったままその光景を眺め、新一とはぐれないようにその手をぎゅっと握りしめた。
 新一だけが元の身体に戻ったのは八年前。戻らないと決めた哀との大きく離れた身長差も今では頭一つ分となった。横を見上げれば新一の優しい瞳に出会い、思わず視線を逸らす。
 こんな風に横に並んで過ごす未来を想像したこともなかった。もう十分だ。自分には不相応な幸せを時々怖くなる。国際線のゲートに着き、哀はゆっくりと手を離した。

「灰原?」

 気付いた新一も立ち止まり、振り返る。

「どうした?」
「…もう、ここでいい?」

 哀はうつむいた。今になって新一と出会ってからの日々が脳裏をよぎり、静かにその姿を消していく。
 新一は一度も約束をしたことなどない。待っていろ、なんて言わない。言ってくれたらそれを理由に哀は生きていけるのに、新一が帰らない場所でどうやって呼吸をすればいいのかさえ分からなくなる。
 目から生温かい液体がぽたりと落ちた。

「哀…」

 新一が荷物を置いたまましゃがみ込んで、哀の頬を拭う。
 日本から出て行く癖に、こんな時にまで優しくしないで欲しい。哀は両手で新一を押し退けた。

「もう、私のことなんていいから、早く行きなさいよ…」

 鼻をすすりながら、失態だと思う。新一の前では平気なふりをして見送って、自分のことなど忘れて新一には新しい未来を歩いてもらうつもりだったのに。
 これではまるで別れを惜しむ恋人のようだ。新一は哀の言うことも聞かずに、哀の頭に手を乗せた。

「灰原、ごめんな」
「謝らないでよ…」
「俺、やっぱりおまえには待っていて欲しいんだ」

 新一の言葉に顔を上げると、新一は眉をしかめて正面から哀を見つめていた。哀はごくりと唾を飲み込む。喉が鳴った。こんな顔をしている新一を見るのは初めてだった。

「おまえに待ってもらえたら、俺はそれだけで救われるよ」

 こんな別れの直前に思いもよらない言葉を投げかけられて、哀は流した涙もそのままに、呆然と新一を見つめた。脳の処理が追いつかない。
 本当はいつまででも待っていたかった。新一の帰る場所を作りたかった。でも自分には叶わないとも思っていた。そう思う事で全てを諦めていたのに。

「…待つわ」

 ぽつりと言葉が漏れた。それを聞いた新一はくしゃりと表情を崩して笑い、哀を抱きしめる。
 最後の温もりかもしれない。それでもいい。離れていても、その温もりは光のように胸の中を灯すだろう。

「必ず帰るよ」

 新一の言葉で、哀も救われる。
 しばしの間抱きしめ合って、新一は立ち上がった。じゃあな、と一言残して、向けられた背を哀は見えなくなるまで見つめた。
 惹かれ合うようにして一緒に過ごした時間を帰る場所となるように、哀自身がただいまと声をかけられる存在になるように、願う。

「…行ってらっしゃい」

 ゲートの向こう側へと見えなくなった新一を思い、哀はつぶやいた。



タイトルは東方神起『Chandelier』から頂きました。
(2015.1.7)