冬のおはなし


 足を踏み出すたびにざくざくと音が鳴る。ここ数年で一番の寒波がやって来たらしい。例にも漏れず、米花町一帯にも雪景色が広がっている。
 幹線道路から一本奥に入ればそこは静かで、しかし道路の端からは無邪気な声が聞こえてきた。住宅街に住む小学生達なのだろうか、小さな体をふんだんに使って、雪を集めている。自分達と同じサイズの雪だるまを作ろうとしているらしい。
 その光景を眺めながら、新一はふっと口元に笑みを浮かべた。子供達のはしゃいだ声が、雲に覆われた空の下に散っていく。

 ――見て、雪だよ!

 目の前のものと記憶にある出来事が混同する。三人の子供達が自分を呼んでいる。もう一つの名前で。
 新一はまばたきを繰り返し、足を進めた。雪が積もっているのに乾燥した風によって目が沁みる。コートのポケットに入っているスマートフォンが重みを示している。あと数分歩けば目的地にたどり着く。自分が生まれ育った家の、その隣。
 阿笠博士から連絡を受けたのは、一時間ほど前だった。

「おう、新一君。よく来たな」

 室内で過ごしているというのに首元にネックウォーマーを巻いた博士が、ドアを開けて朗らかに微笑んでいる。

「博士、連絡サンキュな」

 思いのほか端的な物言いになってしまったのには原因がある。新一は博士の返事を待たずに靴を脱ぎ、リビングに突き進むと、そこには博士のメールにあった通りの姿がソファーにあった。

「志保」

 新一が呼ぶと、背中を見せている志保の髪の毛先が揺れた。
 三年前から付き合っている志保とは新一の部屋で半同棲状態にあり、久しぶりに互いの休日が重なった今日は二人で過ごすつもりだった。しかし、昨日の夜、些細な事で喧嘩をし、志保は出て行ってしまったのだ。
 もちろん電話もメールもした。しかし応答はなく、自宅のマンションに帰ったのかと思いきや、まさか博士の家に来ていたなんて。

「志保、帰るぞ」

 志保の座るソファーの元へに立った新一が言っても、志保はクッションを抱きしめたまま、微動だにしない。
 新一は昨日を思い出す。何が発端だったか思い出せないくらい、とても些細な言い合いだった。仕事に奔走する日々はお互いさまで、何かのリミットが外れたことでの出来事で、それでも玄関のドアの音が響いた時のやるせなさは、今も胸をちくちくと刺している。

「新一君、コーヒーはどうするんじゃ」
「いや、ちょっと俺ら用事があるから、今日は帰る。またゆっくりお邪魔するよ」

 キッチンから呼ぶ博士にそう答えると、ようやく志保が顔を上げた。用事があるというのは嘘だが、どうしても彼女と二人きりになりたかった。

「帰ろう、志保」

 隙を狙って新一は志保の白い手を掴む。温かい空間にいたはずなのに、冷えた感触にどきりとした。



 外に出ると、先ほどの小学生達がまだ雪だるまの作成に奮闘していた。確実にその形は完成に近づいている。

「工藤君」

 新一に手を繋がれたままの志保が小さくつぶやいた。一緒に過ごすようになって三年が経つのに、落ち着いたトーンの志保の声を聞くと、胸の中がじわりと温かさに溢れるような感覚を受ける。新鮮さは今でも失われない。

「昨日、私がどうして怒ったか、分かっているの」

 静かに訊ねる志保に、新一は苦笑をこぼすしかない。簡単に模範解答を得られるのであれば、言い合いも喧嘩も起こらず、そして一緒に過ごす意味すら見失うだろう。それは、不誠実だとか諦観などとは正反対の場所に位置する、二人の間に必要な触媒だ。
 発する言葉によって世界が変わる瞬間を何度も見届けてしまったからこそ、簡単に謝罪を口にすることもできなくて、それがもどかしくて、それでも新一にとって志保は必要な存在だと思う。
 二人並んで雪の上を歩く。子供達の声が遠ざかっていく。
 偽りの姿で過ごした日々の事は忘れない。自分をもう一つの名前で呼んでくれた三人の子供達と共に歳を重ねていたとしたら、今頃どんな未来が待っていたのだろうか。大人になるにつれて諦めてきたものに、もっと必死にしがみついていただろうか。
 世界で誰よりも大切な人を、理解するという事。
 大通りに出ると、アスファルトの雪は車のタイヤの摩擦熱によって消されていた。夕方になれば、道路脇の雪もすべて溶けてしまうだろう。

「志保」

 こんな天候だというのにスニーカーを履いてきたせいで、沁みた足先がいつの間にか濡れて、じくじくと冷たくなっている。

「俺ら、そろそろどうにかしないと」

 新一の言葉と共に、繋いだ手がぎゅっと強く握りしめられる。赤信号の横断歩道、立ち止まった途端に冷たい空気が頬を撫でていった。
 今朝、目が覚めた時。志保が隣にいない経緯を辿った瞬間、小さな喪失感に襲われた。頭では納得していても、心は同じようにはいかない。窓の外に浮かんだ白い景色も、朝の情報番組を流すテレビの音も、コーヒーポットから漂うカフェインの香りも、フィルターの向こう側のもののように思えて、感覚のすべてがその場にいない志保に向いてしまった。
 無事に自宅に帰ったのだろうか、寒くなかっただろうか。夜道を一人で帰してしまったことに対する罪悪感と、それでも譲れない自分にある信念がせめぎ合い、フローリングに立ち尽くしていたところに博士からのメールが届いたのだ。
 信号が青に変わり、新一は横断歩道へと足を踏み出す。

「志保」

 肩で切りそろえられた髪の毛先が、冷たい風によってふわりと揺れた。

「一緒に暮らそう」

 横断歩道を渡った途端、背後では青信号がちかちかと点滅をし始めている。
 志保が借りている自宅の部屋を引き払わない理由を、新一は知っている。自分達は永遠を信じるには、多くのものを目の当たりにしてしまった。
 それでも、手の届く範囲にある世界を変える為にこそ、言葉を使わなければ。
 狭い歩道で立ち止まる。雲に覆われた薄暗い空の下で、ロマンのかけらもない。
 新一を見上げていた志保は、何かを言いたそうに唇を震わせ、そのままうつむいた。新一は思わずその華奢な体を抱き寄せる。コート越しでも、寒空の下に晒された体が冷えているのが分かり、そうさせてしまったのは自分なのだという事実が胸を刺す。

「愛してるんだ……」

 今まで敬遠していた言葉がするりと零れた。付き合う時にだって、初めて夜を共にした時にだって、言った事はなかった。
 意見の食い違いがあっても、生活のすれ違いがあっても、それでも一緒にいたい理由。
 新一のコートがぎゅっと掴まれた。新一の腕の中で、志保が鼻をすする。それは、決して寒さのせいだけではない。すぐ横にある車道を走る車は、天候のせいかいつもよりも少ない。エンジン音が寒空に散っていく。日常の一コマ。
 何の記念日でもない、二人の休日が重なった日に起こった、ある冬のおはなし。



(2022.1.1)