ブルーローズ


 日曜日の夕方、待ち合わせの場所に行くと青いドレスを身に纏った美女が周囲の視線を集めていた。誰かと思えば、付き合い始めて一年になる恋人で、新一は呆れにも似たため息をつき、彼女の傍まで駆け寄る。

「志保」

 新一が声をかけると、彼女が視線をあげ、新一の登場によって周囲がざわめいた。あれって探偵の工藤新一じゃない? という囁き声も聞こえるが、敢えて無視をして新一は志保の手をとった。

「おまえ、何だよその格好…」
「会社の人の結婚式って言ったでしょう」
「そうだけど…」

 無垢な瞳に見上げられ、新一は言葉を失う。
 初夏の夕方は西陽が射すように街を照らし、コンクリートから籠った熱が反射され、まだ気温が高い。仕事帰りのスーツを着たままの新一は額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、改めて志保の姿を見返す。
 結婚式のルールに沿っているので特別露出が高いわけではないが、半袖の白いボレロの下に隠れるドレスは彼女のスタイルの良さを強調していて、つまりは普段であれば洋服で隠せるはずの胸の豊満さだったり、くびれたウエストだったり、膝丈のスカートからはみ出した形のいいふくらはぎだったり、それらがいつも以上に目立っているのだ。もちろんそれは彼女の魅力でもあるのだが、何とも面白くない気持ちになり、新一は志保が持っていた引き出物の入った大きな紙袋を奪うように持ち、志保の手を掴んだまま歩き出した。

「え、工藤君…、食事は?」
「帰るぞ」

 志保の文句のひとつやふたつが聞こえたが、それも無視だ。
 タクシーを拾って、無言のまま、ただ志保の手の温度を感じていた。



 工藤邸の玄関のドアを開けるなり、新一は靴を脱ぐ事も忘れて志保を抱きしめた。

「ちょ、ちょっと…、工藤君!?」

 あまりの唐突さに二人の足がもつれ、志保が壁に背を預ける姿勢となり、それを逃がさないようにした結果、更に身体が密着する。青いドレスのシルク生地が彼女の腰を抱いた手に馴染まず、新一が指を上に滑らせてボレロの中に入れると、やはりドレスはキャミソール型だったのか、すぐに彼女の肌の感触に届き、ますます苛立ちがこみ上げた。

「工藤君ってば!」
「志保、おまえ無防備すぎだろ」

 待ち合わせ場所をあんな人通りの駅前にした事を新一は後悔していた。何より、披露宴の間、彼女はこの無防備な格好を晒していたのだ。ただの嫉妬だと分かっている。それでも、猛烈に彼女を自分の殻の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られ、新一は志保の首筋に唇を寄せた。
 出会った頃から変わらないボブカットから、慣れたシャンプーの香りが漂う。白い肌を強く吸えば、そこはうっすらと充血を残した。

「やだ、見えるところにはやめてって言ったじゃない」
「おまえさ…。俺がずっと考えてたこと分かるか?」
「分かるわけないでしょう」

 志保がたじろぎ、新一は志保を抱きしめたまま、深呼吸した。ボレロの下に入れたままの手で、ドレスの紐を弱く引っ張っただけで、志保がびくりと震えた。

「このドレスを脱がす瞬間ばかり考えていた」

 新一が志保の耳に寄せたまま言うと、耳まで赤くなった志保が、変態、と小さくつぶやいた。



 今日も朝から仕事をして、依頼人の無茶を聞いて、決して愉快ではない出来事ばかりを目の当たりにした。子供の頃から憧れていた職業とは言えど、楽しい事ばかりではない。むしろ心が荒む事の方が多い。
 そんな日の終わりには、必ず志保に触れたくなった。
 とは言っても、志保とは別々に暮らしていたし、お互いの生活を尊重していたので、いつもそれが叶うわけではない。そこに不満があるわけではなかったが、やはり彼女に会えば、おさめどころのない衝動を彼女にぶつけてしまっていた。
 シャワーを浴びる余裕もなく、部屋の空調も付け忘れて、ようやく辿りついた寝室で彼女のドレスを脱がす。待ち焦がれた瞬間に妙な興奮を覚えた。
 ボレロを脱がすと、たった二本の紐で支えられた青いドレスがとても頼りない布切れに見えて、破り散りたくなった。その欲望をどうにか我慢し、代わりにくっきりと浮かび上がった鎖骨に触れた。先ほど志保に言われた通り、自分が変態である事は敢えて否定しないが、このドレスを作った人間だって同類だと新一は思う。
 志保の左脇下の位置にファスナーがある事に気付き、それをゆっくりと下ろすと、いとも簡単にドレスがパサリと音を立てて床に落ちた。目立たせないようにする為か、いつもよりもシンプルな下着を見て、志保を確信犯に思った。

「どう?」

 それまで黙っていた志保が、新一の首に腕をまわし、聞いてきた。

「何が」
「ドレスを脱がした瞬間。これで満足した?」

 見上げる瞳は、付き合う一年前までには見る事のなかったもので、新一はごくりと唾を飲み込んで、薄く笑う。

「まさか」

 そう言って志保の色づいた唇にキスをした。
 ようやく呼吸ができるような感覚に安堵しながら、二酸化炭素を飲み込むようにリップ音をたてながら口づけを交わす。志保の指が新一のシャツの上を辿り、器用にネクタイが外された事に気付き、胸の中がうずいた。
 どうしようもない焦らされ方に、仕掛けの方法を迷う。負けじと新一も唇を離さないまま志保の身体をベッドの上に押し倒し、彼女の背に腕をまわして下着のホックを外した。同時に新一のシャツのボタンが外され、細い指に喉仏を撫でられ、思わず志保から唇を離した。

「おめー、そこは急所だぞ?」
「知ってるわ。私、いつでもあなたを狙ってるの」

 ベッドの白いシーツの上に柔らかい髪の毛を広げるように押し倒された彼女の新一を見つめるその瞳は、挑発的で、扇情的で、新一は喉元で笑った。思う存分狙われてやろうじゃないか。それでも最後に彼女を仕留められる男は、自分しかいない。
 支配された優越感と共に、彼女を丸裸にする。この世に不可能なことなどないと錯覚さえ覚え、もう一度彼女の鎖骨に唇を寄せて、大きく痕を残した。



 口の中がからからに乾燥する。新一はベッドに寝そべったまま、床に散乱している服やドレスをぼんやりと見つめる。
 やけにお互いの体温を熱く感じたと思ったら、クーラーも付け忘れていた事に気付く。ベッドに横になって目を閉じている志保の前髪に触れると、やはり汗によって額にくっついていた。
 新一は嘆息し、ベッドから這い上がるように起き上がり、枕元のサイドテーブルに置かれたクーラーのリモコンを手に取って電源を入れた。途端に室内に涼しい風が舞い込み、身体的には快適になったというのに、どこか空虚さを感じ、新一は背を向けて眠る志保に後ろから抱きつく。

「…暑いわ」

 志保の低い声が恨めしく響き、新一は、ごめん、と苦笑する。
 汗のせいか、彼女の背中がいつもよりもしっとりと湿っていて気持ちがいい、なんて事は言わないでおく。

「おめーのドレスさ、」

 新一がゆっくりと言葉を紡ぐと、志保は少しだけ身じろぎし、視線だけこちらに寄越した。行為の後の少し気だるげなその瞳が、新一は好きだ。

「スカートの裾の所にバラの刺繍があるのな」
「…そんな細かい所にまで気付くなんて、あなたって本当に変態ね」
「さっき気付いたんだよ」

 志保の言葉に苦笑しながら、新一は志保の肩に顔をうずめて瞳を閉じる。甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「ドレス、似合ってたよ」
「嘘ばっかり。脱がす事しか考えてなかった癖に」
「だから、似合ってたんだけど、他の奴らには見せたくなかったって事」

 彼女と自分は別々の人間だ。それは、海が空に反射して青いくらい常識的な話だ。でも今この瞬間だけは、自分の肉体が彼女の中に溶け込んで、そして自分の中に眠る禍々しさを浄化できるように思った。
 志保が新一の髪の毛を撫でる。先ほどとは全く違う、憂いを帯びた表情で、母親のような優しさで、新一を甘やかす。
 新一は青いバラを脳内に思い描く。自然界には存在しない物。まるで記憶の彼方で生きる姿を変えた自分達のようだった。

「工藤君、お腹が空いたわ」

 志保がつぶやき、新一は自分に触れる志保の手をそっと握りしめ、志保に顔を寄せた。何気ない会話ができる時間をとても幸せだと思う。

「そうだな。約束通り、飯食いに行こうぜ」

 志保の首筋に浮かぶ赤い痣にそっと触れ、ごめん、と小さくつぶやいた。自分の中に潜む凶暴な独占欲を知る。彼女を大切にしたいのに、上手くできない瞬間がある。
 それでも、この工藤新一に不可能なものなどあるはずがないのだ。
 彼女の微笑みに触れ、新一はそっと志保を抱きしめる。窓から覗く夏の空は、まだ夜を知らない。



 ブルーローズ
  花言葉:不可能・奇跡・夢叶う


(2016.3.1)