Purity in the Black


 グラスを持つ手に添えていたハンカチを落としてしまい、舌打ちをしかけたところにそのハンカチは拾われた。園子はそのハンカチを目で追い、それを拾い上げてくれた目の前の人物を見た。

「あ…、ありがとう」

 ハンカチを拾ってくれた彼女は、普段鈴木家が主催するパーティーでは見かける事のない、ふわりとした茶髪に黒いロングドレスを身にまとった女性だった。園子はおずおずとそのハンカチを受け取る。ハンカチを持っていたその華奢な手はとても白く、よく顔を見れば日本人離れしている。西欧の血でも入っているのだろうか。

「どういたしまして」

 その美女は圧倒的な雰囲気とは裏腹に、無表情で答えた。
 誰かの連れだろうか。彼女の周りをキョロキョロと見渡すが、多くの招待客で賑わったすぐ傍には彼女の知り合いに見える人はいない。彼女を見ているうちに、なぜか既視感のようなものを覚えた。

「ねぇ、前にどこかで会った?」
「…気のせいだと思うわ」

 ちぐはぐさを残して答え、そのまま彼女も周りを見渡す。園子と一緒にいるのも気まずいが、かと言って行くべき場所もない。そんな雰囲気が漂っているのが分かった。気まずいのは園子も同じだ。しかし持ち前の社交性をもって、園子は負けじと話を続ける。

「あなたも招待客?」
「いいえ、私はエスコートされただけ」
「でもその人はいないのね」
「そうね。私を放置してどこかへ行ってしまったわ」
「何それ、ひどい」

 園子が言うと、彼女はほんのり困ったように笑った。黒いドレスをまとった大人びた表情から一変、ほんのり幼さを残した控えめな笑顔に、やっぱりどこかで会ったような気がしてならない。でもこんな美人、一度会えば記憶に残るはずだ。

「ねぇ、名前を聞いてもいい?」

 園子が訊ね、彼女が口を開きかけた時。

「―――志保!」

 背後からとても聞き覚えのある声が響き、園子は振り向いた。するとその声の主も園子を見て、目を丸くする。

「あれ?」
「…新一君?」
「おまえも来てたんだ」
「まぁね。一応これでも鈴木財閥の次女ですし?」

 園子が胸を張って自慢のストレートの茶髪に手をかければ、新一は目を細めて「相変わらずだな」と笑った。相変わらずなのは新一のほうだ。高校を卒業して何年経っただろう。もう大学も卒業して探偵業を営む彼も、笑うと途端に幼い表情になる。相変わらずだ。
 だけど、園子にも知らない事がひとつ。

「もしかしたら、この子の連れって、新一君?」
「…志保と知り合い?」
「まさか。今会ったばかりよ」

 新一の問いに答えたのは志保と呼ばれた彼女だった。

「宮野志保です」
「あ…、私は鈴木園子」
「知ってるわ、鈴木財閥のお嬢様」

 肩をすくめていたずらな笑みを浮かべる彼女の隣に、新一が立った。

「おまえどこに行ったのかと思えば。探したぜ」
「あら、ホームズフリークに会った途端私の事なんて忘れたのはどこの誰だったかしら」
「…悪かったってば」

 パーティー用のタキシードがやたらと映えた姿の新一が申し訳なさそうに志保に手を合わせる。それを見た園子は心の中がざわつくのを抑えた。
 彼は、園子の親友と付き合っていた。
 その経緯の大部分を園子は把握している。

「工藤君。飲み物とってくるわ。何がいい?」
「あ…、そしたら赤ワインで」
「園子さんは?」
「…私はいらない」

 園子が首を振ると、志保はうなずいて去って行った。その黒いドレスは余計な脂肪のついていない背中を惜しみなく見せている。着こなせるのは彼女くらいだろう。

「…彼女、いいの?」
「何が?」
「私の事を何か勘違いして気を利かせたんじゃない? 元カノだとか」
「それはねーよ」

 園子の冗談に新一は表情を崩して笑う。

「俺の好みくらい、あいつは知ってるよ」
「何それ、どういう意味?」

 返された冗談に笑いながらも、なぜか園子は寂しさを覚えた。さりげなく彼女との親密さを見せつけられたようで。
 新一に会うのはいつ以来だっただろう。高校時代のクラスメートで、そして園子の親友と付き合っていた。大学になってもそれは続いていて、時々園子も一緒に会うこともあった。
 ―――新一と別れた。
 親友が泣きながら電話をかけてきたのはいつだっただろう。それを機に、園子が新一に会う理由はなくなった。

「あのさ…」

 声のトーンを落として、新一は手をポケットに突っ込み、言いにくそうに口を開いた。

「蘭なら元気よ」

 新一が言葉を発するよりも前に園子が答えると、新一はよく分かったな、とでも言うように笑い、安堵のため息をついた。
 皮肉っぽく答えてやろうと思ったのに失敗した。園子は心の中で舌打ちする。
 そして分かっているのだ。新一は非情な人間ではない。誠実に蘭と付き合っていたはずだ。そして今だってこうして園子の顔を見れば気まずいながらも訊ねてしまうくらい、大切に思っていることも。
 それでも彼らは一緒にいられなかった。

「おまえはやっぱり親父さんと来てるのか?」
「え? ああ、うん。パパと一緒よ。今パパは挨拶回りしているけれど」
「慣れたもんだな、おまえも」

 それはこっちの科白だった。
 園子は生まれながらに鈴木財閥の次女としてそれなりの教育を受けてきた。それに比べ、新一は両親が有名人ということで園子とは別の意味で特殊な環境で育ったものの、幼い頃からパーティーに参加するような事はなかったはずだ。
 だけど目の前にいる新一は、とても様になっている。

「鈴木会長にも挨拶して来ないとな。なんだかんだ昔からお世話になってるし」

 高校生の頃と同じあどけない表情で言う新一を見て、覚えのない焦燥感が胸に広がった。
 ああそうか、と園子は思う。だから蘭は別れを選んだのかもしれない。広い世界に臆することなく、まっすぐ前を向いて歩く新一と一緒にいられなくなる理由はきっと一言では表せない。
 だから今となっては新一を責めることなんてできなかった。そもそも園子は口出しできる立場でもない。
 視線を動かすと、遠くからワインを持った志保がゆっくりと歩いてくるのが見えた。

「新一君、今幸せ?」

 突然の言葉に、園子自身が驚いた。自分はいったい何を聞きたいのだろう。
 あの頃も幸せだっただろうか。今が一番幸せだなんて言わないで欲しい。懇願するように新一を見上げると、新一は困ったように笑って、

「おまえはどうなんだ?」

 園子の近況を知ってか知らずか、そう訊き返した。
 彼は今までそんな会話の仕方をしていただろうか。自分の好きな事ばかり話しては蘭を呆れさせていた頃の彼と同一人物だと思えない。

「工藤君」

 足元の裾をふわりと揺らして、志保が戻ってきた。

「あ、サンキュ」

 新一がグラスを受け取る。指と指が触れ合うのを園子はぼんやりと眺めていた。
 幸せを比較することなんてできない。きっとそれを訊くのはタブーだ。幼馴染を贔屓目に見ていた自分に苦笑し、園子はハンカチとグラスを持ち直して二人を見た。

「じゃあ、私もそろそろパパを探して来ようかな」

 園子が声を張ると、二人は同時に園子を見た。

「俺も後で挨拶に行くよ」
「無理しなくていいわよ。新一君のことパパに伝えておくから。だから彼女を放置なんてしたら駄目よ」

 園子が言うと、志保が余計な事を言うなと言わんばかりに園子を睨んだ。無表情でクールで大人だと思っていた彼女も、案外可愛いところがあるじゃないか。

「志保さん、またね」
「…ええ」

 そう答えて志保はほんの少し微笑みを浮かべて軽く手を振る。その姿はまるで黒に潜む純真だ。
 次にパーティーに来る時には婚約している彼を招待しよう。新一ほどパーティー慣れしていないし、タキシードも似合わないかもしれないけれど。膨らむ想像に笑いがこみ上げるのを隠しながら、園子も手を振り返し、父親を探すために歩き始めた。



(2014.12.19)