夏の西陽が街中を射す平日の夕方、珍しく早く仕事を終えた志保はいつものように電車に乗り、住居にしている阿笠邸の最寄り駅である米花駅で電車を降りた。
早く仕事が終わったからといって予定などあるわけがない。基本的に仕事と家の往復の毎日だが、夢みたいに平穏な日常に不満はない。今日は久しぶりに博士に夕飯を作れるわ、と思いながら学生で溢れ返る米花駅の改札をくぐった。
「あれ、宮野?」
休日の予定も埋まらないくらい知人の少ない志保の名前を呼ぶ人間なんて、何人もいるわけがない。こんな時間に帰ってきてしまったことを悔みながら志保が顔をあげると、駅の構内に馴染むように新一がそこにいた。
「…工藤君」
「今帰りか? ずいぶん早いんだな」
「そういうあなたこそ、こんな時間にこんなところで何をしているの」
この春に大学を卒業して二十三歳になった彼は、夏だというのに暑苦しそうなグレーのスーツを着て、それでも憎らしいほど涼しげな笑顔を見せてくる。ポケットに突っ込んだ手からはみ出すように某ブランドの腕時計がきらりと光り、更に彼のカリスマ性を引き出していた。日本警察の救世主と呼ばれていた高校生だった頃よりもずいぶんと輝かしいオーラを放つそれは、間違いなく元女優である母親の遺伝だろう。
「一つの案件が早く終わったから、事務所に戻ろうと思って」
「そう。ちゃんと休めてるの」
「まぁぼちぼち」
大学時代に開いた探偵事務所の仕事はその知名度もあり順調のようで、むしろ忙しすぎるように見えた。だけど彼は以前のようにマスコミに顔を出すことはなくなった。出逢った当初に見られなかった謙虚さは成長故のものか、それとも経験故のものか。
「早く仕事が終わったなら、早く帰って彼女に会ってあげなさいよ」
お節介だと思っても口はしゃべることをやめない。
だから会いたくなかったのだ。仕事と家の往復で、時々夕食の材料を買いに行くくらいの外出では新一に会うわけがなかった。彼に会うのは本当に久しぶりだった。だけど、お互い久しぶり、と声をかけないのは、同じ時間を過ごし、同じ秘密を抱えた過去があるからかもしれない。
「…彼女?」
志保の言葉を聞いた途端、これまで太陽のように輝いていた新一の表情が曇った。
ざわざわと駅構内の人々の声やアナウンスは先ほどと同じように流れているのに、突然それらがシャットアウトされたように張りつめた空気が流れた。
「ああ、蘭の事? …別れた」
新一の思いがけない告白に、志保は目を見開いた。
「別れたって…。いつ?」
「先月」
「…先月って、最近じゃない。大丈夫なの?」
失恋の辛さは、志保にだって分かる。感情を表に出さなかっただけで、目の前にいる男に恋をし、身が裂けるような思いを抱えて、逃げるように新一の日常から姿を消したのだ。
その甲斐あって、隣に住む新一に会うことは滅多になかった。少なくとも新一が恋人と二人で歩く姿に出逢ったことなどない。それはとても幸せなことだった。新一だって、今こうして再会するまで志保のことなど忘れていたに違いない。
「別に。もうそろそろ駄目になるなって分かっていたし」
「………」
薄汚れた床に視線を落としながらつぶやく新一に、志保は一歩だけ近付く。
元の姿に戻ってからすぐに新一は昔から想っていた幼馴染に想いを打ち明けて、二人は今も変わらず幸せな時間を過ごしているのだと思っていた。あれからの時間の長さを思う。どんなに強い絆で結ばれても、それが解けるのなんて一瞬だ。
新一の陰りある表情を見て心が痛むのに、その裏側で期待をしている自分がいる。志保は泣きたくなった。こんなときまでなんて最低な女だろう。
どう声をかけていいのか分からない。あなたならすぐにいい人が見つかるわよ。この渇いた口を動かしてそう言ってみようか。自分の計算高さに嫌気がさしていたとき、
「宮野」
新一は顔をあげて、志保を見た。身長が高いはずなのに上目づかいで見上げるその視線は、小学生として共に過ごした時間を思い出させた。
「…何よ」
「慰めてよ」
そう言って、その頭を志保の肩に乗せた。
彼の柔らかい髪の毛が汗で湿った志保の首筋に触れて、くすぐったい。肩に額の温度を感じる。
ざわりと視線を感じた。これまでシャットアウトされていたはずの二人の空気が、今では目立って視線を集めている。それに気付いた志保は身をよじるが、新一は頭をあげようとしない。
「ちょっと工藤君、離れて」
「なんで」
「みんな見ているわよ。離れて」
早口で言い、新一を離そうとその広い肩に手を伸ばした時、新一は顔を上げ、
「じゃあ、みんながいないところならいいの?」
憎らしいほどの笑顔で、至近距離でそう言った。志保はかっと顔を赤くしたが、すぐさまその額を軽く叩き、
「馬鹿なこと言ってないで。帰るわよ」
新一を置いて、歩き出す。
「俺も帰ろうかな」
「事務所に寄るんじゃなかったの」
「たまには休まなきゃ、だろ?」
それを言われると何も言えない。
人の気も知らないで、と志保は隣を歩く新一にため息をつきつつ、これからはたまにこうして二人で歩くのもいいのかもしれないと思う。新一が今後誰を好きになるか分からないし、またそこで自分が泣くのは目に見えているけれど、それでも昔のように相棒として、少しくらい幸せを感じてもいいのかもしれない。
「今日は久しぶりに博士に夕飯を作るの。あなたも来る?」
優しさを引き出してそう言ってみると、新一は無邪気に喜んだ。
「まじ? 久しぶりだなー、宮野の飯」
「その代わり、片付けは手伝ってよね」
歩きながら騒がしかった駅構内を出る。
真夏の風は夜になっても生ぬるく、不快指数は増えるばかりだけど、まずは新一を慰めるべく彼の好きなハンバーグを作ろうと、志保は思ったのだった。
タイトルはEvery Little Thingsの曲から頂きました。
(2014.8.27)