happy days


「工藤君、起きて」

 懐かしい声が鼓膜に触れ、新一はゆっくりと意識を取り戻した。
 ぼんやりと目を開けると、そこには志保の顔があった。

「…宮野?」

 ここがどこなのか理解できるまでにかなり時間がかかった。
 どうやら阿笠邸のリビングのソファーでうたた寝をしてしまったらしい。
 仕事の特性上帰る時間はその日によってまちまちだったが、ここ三カ月、早く帰ることが出来た日には阿笠邸に寄ることが日課になっていた。ただし志保がいることは少なく、その代わり昔から馴染みのある阿笠博士と会話をして、志保に会わないまま自分の家である工藤邸に帰ることもしばしばだ。

「こんなところで寝ると風邪ひくわよ」

 新一が寝ている間に帰宅したのだろう、スーツを着こなした志保が冷たい視線を向け、そのまま自室のある地下室に降りようとした。

「宮野」

 新一が起き上がって志保を呼ぶと、志保はため息をついて振り返る。

「何」
「コーヒー飲みたい」

 その言葉に志保は眉間にしわを寄せ、「…後でね」と地下室に降りて行った。
 新一は目をこすりながらリビングを見渡す。腕時計に目を落とせば、夜の11時を回っていた。博士はもう自室で寝ているのだろう。秋の色がどっぷりと濃くなり、肌寒い季節となった。志保と再会してから一つの季節を跨いでいた。



 それはまだ陽が沈んでも蒸し暑さで汗がにじんだ四か月前。

「もう無理だわ」

 新一の車の助手席で両手を膝の上で握りしめて、蘭はそうつぶやいた。新一は黙ったままハンドルを握っていた。

「…新一も分かっているでしょ?」
「………」

 蘭とは高校二年生の頃に付き合い始めて、もうかれこれ五年経っていた。彼女のことは何でも分かったし、幼馴染だったこともあって今更気を遣うこともなかった。だけど、常識外れな出来事を体験した身として、その秘密を持て余すことがあった。そして彼女が思う自分と、本当の自分の差に気付かされ、いつしか彼女と一緒にいることを億劫に感じてしまうこともあった。
 昔から一緒にいる蘭がそれに気付かないわけがない。仕事を理由に距離を置いた新一を、蘭はやんわりと責めた。蘭の言い分が正しく、言い訳できる余地もなかった。だけど、その正しさに感情がついていかない。もうどうしようもなかった。
 確かに彼女を好きで、彼女を守りたかったのに。
 今も彼女を好きで、彼女の身に何かが起これば真っ先に駆けつけて助けてあげたいのに。

 ―――なのに、どうして一緒にいることが出来ないんだろう。

 重たい沈黙が流れる中、言葉を発することも出来ず、蘭の住む毛利探偵事務所の前に車を停める。蘭は降りようとせず、車内ではハザードランプの音が虚しく響いた。
 今日は久しぶりに会って夕食に誘ってみたけれど、何も取り繕うことが出来なかった。それどころか、尚更綻びてしまった。

「新一」

 口を開いたのは、蘭だった。新一の顔を見ようとしないまま、フロントガラスをじっと見つめ、

「もう終わりにしよう」

 その言葉により、車内の温度が下がる。蘭は車内のドアに手をかけた。ガチャリ、と音を立ててドアが開き、蘭が車を降りる。ようやく新一が助手席に顔を向けると、ドアを閉めずにいた蘭が控えめに車内を覗き、

「…ありがとうね、新一」

 そう言って、ドアが閉まった。終わりを示す音が響いた。
 始まりはあんなにもときめいて舞い上がったのに、終わる時はこんなにもあっけない。



 寝ぐせを気にかけることもなくぼんやりと四か月前の出来事を反芻していた新一は、コーヒーの香りによって再び意識を現実へと戻した。
 顔を上げると志保が淹れたてのコーヒーの入ったマグカップを新一に差し出している。

「…サンキュ」
「どういたしまして」

 自室で着替えてきたのか、志保の格好はラフな服装に変わっている。新一はマグカップを受け取った。コーヒーを飲んだことでその苦味が口に広がり温かさが喉を伝って全身に染み渡った。志保も新一の隣に座ってコーヒーを飲んでいる。

「帰ってくるの、遅いんだな」
「そう?」
「飯は?」
「食べてきたわ」

 疲れているのか、ソファーにもたれる志保の言葉に、誰と食べたのだろうという疑問がよぎる。再会してから三カ月、そういえば一度も考えたことがなかった。志保に恋人はいるのだろうか。

「あなたはよくここに来ているけれど、博士の食事にも気を遣いなさいよ」
「…どういうことだよ」
「博士のメタボに拍車をかけないでって事」

 静かにコーヒーを飲む志保の横顔は儚くて、消えてしまいそうだと思った。なぜ急にそんなことを思ったのか分からない。
 そもそもなぜ阿笠邸に寄ることが多くなったのか、新一自身もよく分かっていなかった。ただ志保に会えなかった夜はなんとなく落胆し、会えた日は心が和んだ。
 高校生の頃は傲慢さを持っていたし、格好よく見られたかった。クラスメイトにも世間にも、何より蘭にも。だけど志保にはそんな虚像は見破られている。これ以上隠すものなんてなかった。蘭には言えなかった時間を志保は知っている。そして、その頃に見せた新一の弱さを知っている。自分を飾らないことがこんなに楽なものだとは知らなかった。

 蘭と別れた事を告げた時、志保は自分の事のように悲しそうに顔を歪め、夕食にハンバーグを作ってくれた。何も聞かないでいてくれるその態度はとても助かった。そういえば小学生という時間を過ごした時も、そんな風に傍にいてくれたことを思い出す。離れてみて初めてその日々を貴重に思った。

「宮野、おまえ付き合っている奴いるのか?」

 先ほど沸いた疑問を投げかけると、志保は思ってもみなかった質問にごくりとコーヒーを飲み込み、新一を睨んだ。

「…いたらどうなの?」
「え…」

 ―――それは、困る。
 言葉にならない想いが新一の胸の中に湧き上がり、新一は困惑した。
 彼女は確かに命の恩人で、相棒で、誰よりも自分を見透かす人だったけれど。
 こんな感情にとらわれてしまうことがあるのだろうか。犯人を特定するときのように、まずは否定要素を探してみるけれど、混乱して頭がうまく働かない。
 そんな新一を眺めていた志保は、

「もう遅いから早く帰りなさい、名探偵さん」

 ソファーから立ちあがり、新一を見下ろして不敵に笑った。
 思わずその笑顔に釘付けになる。決して守りたくなるような可愛らしい笑顔ではないのに、いつもその笑みに安心感を与えられていた過去を思い出す。
 おやすみ、と志保が再び地下室に降りて行った後、ソファーに座り込んだまま新一ははぁ、と深くため息をついた。
 自分がどうしたいのか分からない。ただ恋人がいなくて寂しいからここにいるわけではない事は確かだった。

「どうしたものかな…」

 阿笠邸を出て、空を見上げる。
 まずは志保の恋人の有無を聞いてから、改めて自分達の関係について考えるのも悪くないかもしれない。そんなことを思った。



タイトルは倉木麻衣の曲から頂きました。
(2014.8.31)