ぴりっとした初恋


 ―――しまった。
 まさか彼女に会うなんて思ってもいなかった。今日この時間に米花駅にいることを志保は激しく後悔する。

「…宮野さん?」

 通りすがりにしっかりと目が合ってしまった手前、無視することも出来ない。逸らしかけた目を再び向ければ、そこには昔と変わらない済んだ瞳で蘭が志保をまっすぐに見つめていた。
 黒いリクルートスーツ姿に、黒い鞄。季節は春。そういえば同じような格好の若者が通勤時間に慣れない足取りで電車に飛び乗って来るようになった。
 そうか、彼女ももう大学を卒業して社会人になったのだ。

「あ、お久しぶりです」
「…そうね」

 彼女の中で、いったい自分はどんな立ち位置になっているのか志保は考える。彼女にとって志保の存在が好意的ではないことくらい想像できた。
 なのに、その記憶とは違い、蘭は柔らかく微笑む。

「宮野さん、よかったらお茶しませんか?」

 居心地悪いのはお互い様のはずなのに、その言葉を断れなかったのは何故だろう。



 元の身体を取り戻して、新一は蘭と一緒に過ごすものだと思っていた。
 確かに新一はコナンになる以前と同様、蘭と一緒に登下校をし、何も変わらずに高校生活を過ごしていた。何も変わらずに。それが問題だったのだ。
 あまつさえ阿笠邸に住む志保に偶然会えば、隣を歩く蘭にもお構いなしで無邪気な笑顔で志保に話しかけてくる。その時の蘭の不安そうな瞳の色に、志保はしかめ面を隠せなかった。
 蘭でなくたって、自分の好きな男が得体の知れない女と親しげに話をしていたら不愉快になるに決まっている。
 それを新一に説教をしたら、新一は少し複雑そうな顔をして、それでも意思を持った口元ではっきりと言ったのだ。「俺、あいつの望みに応えられないんだ」と。
 時間は人の恋心すら変えてしまうものだった。巷には聞いていたけれど、それが目の前で起こった事に志保は少しがっかりした。あんなに蘭を想っていた新一ですら時間に流されているというのに、自分は何をしているんだろう。



 駅構内にあるカフェでコーヒーを持って空いている席に着いた。
 蘭が座るのと同時に白いシャツの襟元で黒髪がふわりと揺れているのが見えた。元々愛嬌もあって可愛らしさを兼ね備えた彼女は、本当に綺麗になったと思う。
 蘭の手元ではミルクティーが湯気を立てて甘い匂いを放っている。新一のコーヒー好きは彼女には伝染しなかったのかと思うと、好みは人それぞれなはずなのに、少し不思議にも思った。

「宮野さん、聞いて下さい!」

 そのミルクティーを口に含むや否や、これまでの落ち着き払った態度から一変して、蘭は前乗りになって話し始めた。
 志保自身も驚いた話だが、なんと蘭には現在付き合っている男性がいて、その悩みの相談だった。それを静かに聞きながら、やはり時間の流れを感じ、時間の働く作用を考える。時間が解決するとはよく言ったものだ。
 彼女はどうやって新一への恋心を自分の中で消化し、前へ向こうと決意したのか。
 その相談はありふれた内容だったけれど、それを自分が上手くアドバイス出来るか志保には自信がない。

「…私より適切なアドバイスを持った人が他にいるんじゃないかしら」

 コーヒーを飲みながら静かにつぶやくと、蘭は目を丸くした後、可笑しそうにクスクス笑った。

「だって宮野さん。あの難しくてわがままな新一を射止めたくらいなんだもん。宮野さんに聞けば間違いなさそうじゃないですか」

 蘭の言葉に志保は思わずコーヒーをこぼしそうになった。慌ててそっとコーヒーをテーブルに置く。

「射止めた…?」
「え、だって付き合ってるんでしょう?」
「付き合ってないわよ」

 時々そういう勘違いをされることはある。主に警察関係者に、だ。
 でも付き合っているどころか、そう頻繁に会っていない。今も昔も変わらず、志保は新一にとって都合のよい時に呼び出され、都合のいいように頼られる存在でしかない。でもそれでも不満はなかった。組織で知らない内に罪を重ねてしまった自分を新一は邪険に扱わず、そうして頼ってくれることに、志保自身小さな喜びを感じてしまっていたのだ。
 最もよくない共依存状態に陥っていることも分かっている。それでも志保はそのぬるま湯から抜け出せない。
 志保が否定すれば、蘭は少し驚いたように、だって…と口ごもった。

「…私、新一の事が好きだったんです」

 突然の告白に、志保は視線を落とした。

「そう」
「新一にそれを言ったら、振られたんです。宮野さんの事が好きだからって」
「………冗談にしては性質が悪すぎるわね」

 志保は押し潰されそうになる胸をこらえながら鼻で笑った。ただの冗談に傷ついてしまう自分自身が一番性質が悪い。
 すると蘭は少し声を張り上げた。

「違います。新一、本当にあなたのことが好きだったんです。私、彼の幼馴染だからすぐに分かりました。…新一から何も聞いていませんか?」

 目の前にいる蘭は昔と変わらない。どんなことにも恐れずにまっすぐに前を向いて、目を逸らさない。それにはどれほどの覚悟が必要だっただろう。
 いつも目の前にある現実から逃げようとしていた志保が新一のことを語るなんて甚だしいにもほどがある。

「…私は何も聞いていないわ」

 静かに言えば、蘭は少し困ったように笑った。

「新一、本当に好きな人には素直じゃないのかも」

 蘭の言葉には思い当たる節もあり、蘭に対して素直じゃなかった少年の姿が思い浮かんで余計に胸が痛くなった。



 蘭と別れて、住んでいる阿笠邸までゆっくり歩く。
 日が長くなったとは言え、カフェで話し込んでいる内にすっかり暗くなってしまった。
 新一は隣に住んでいるはずなのに、お互いの生活が噛みあうこともなく、会う事はほとんどない。それでもほんの時々、新一は何かの用件で志保を呼び出す。わざとそうしてくれていたのではないかと今になって志保は思った。
 自惚れかもしれない。でも他に知人もなく、仕事以外ほとんど外に出る事のない志保を外に連れ出してくれていたのではないだろうか。そもそも新一ほどの探偵が志保の力なく事件を解決できないなんてありえないのだ。
 阿笠邸の門を開けながら、こっそりと隣の家を見上げる。今日も電気は点いていない。今頃またどこかで事件に遭遇しているのかもしれない。
 次に新一に会う時にどんな顔をすればいいのか分からず、志保は途方に暮れた。曖昧な痛みの中でバランス悪く立っているこの感覚は、まるで初恋の症状だ。



f(x)の「Rum Pum Pum Pum(邦題:初めての親知らず)」をイメージとして頂きました。
(2014.11.26)