線香花火


 ものの数分で阿笠邸に行くと、意外な事に哀が出迎えてくれた。紺色の半袖ニットに、白いチノパン。顔色も悪くない。いつもの様子に、コナンはほっと胸を撫で下ろす。
 哀に促されるまま、コナンはリビングへと歩く。パソコンに向かっている博士と軽く挨拶を交わし、哀に連れられるまま階段を昇った。
 向かう先は屋上だろうか。推理にすらならない予想通り、哀は屋上に繋がるドアを開けた。たちまち視界が西日に照らされ、コナンは思わず目を細めた。
 コンクリートの感触をスニーカー越しで辿りながら、哀の後を追う。彼女の手には、見覚えのあるセロハン地のビニル袋がぶら下げられている。

「灰原、それって……」

 コナンが言いかけると、哀は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。夕方の湿った風が、哀の癖がかった髪を揺らしている。

「結局、開けていないままなのよ」
「そっか。元太達と約束した日、大雨だったもんな」

 哀が持っているのは花火セットだった。例年通り、少年探偵団の三人と花火をしようと話していた八月の終わり、天気に恵まれず、その後は五人の都合が合わず、結局その予定は流れてしまった。
 そういえば、夏祭りも今年は五人では行けなかった。そうやって大人に近づくたびに、人間関係模様も少しずつ変化をしていくのだろうか。とっくに過ぎ去った経験が重ねられていく感触に、覚えのある痛みが喉元をちくりと刺した。
 派手に装飾された厚紙と花火の入った透明のセロハン地の袋をコンクリートに置いた哀は、その場にしゃがみ込んで、袋の中を漁り始めた。

「おい……、もしや今、花火をしようと言うんじゃねーだろうな?」
「そのもしや、だけど」
「ちょっと待て。まだ空は明るいし、準備も整っていないし、ていうか、俺とおまえで?」

 ぽかんと顔をあげる哀にまくしたてるようにコナンが言うと、哀はため息をつき、細い糸状の何かを取り出した。
 頼りのなさそうな形状の、それは線香花火だ。

「あなたと私で、派手に花火を楽しむ年齢でもないでしょう」

 しゃがんだままの哀が視線でコナンに座るようにと促すので、コナンは小さく嘆息をこぼし、哀の隣に同じようにしゃがんだ。
 二人のあいだに男女の性差は見られないはずだった。まだ子供の体型で、身長もさほど変わらない。しかし、西日に照らされた彼女の白い頬はやけに大人っぽくて、確かに彼女の言うとおり、自分達は手持ち花火ではしゃぐような年齢ではないのだと思い出す。
 哀から一本の線香花火が手渡され、それを持つ姿勢を考えているうちに、哀が一本のマッチに火をつけた。灯された火によって、線香花火が息を吹き返したようにみるみると火花を飛ばし始めた。独特の火薬の匂いが、夏の終わりの空気に混ざり込んでいく。
 ふと視線を向けると、哀もコナンと同じように、火花を咲かせる線香花火をじっと見つめているようだった。

「なぁ……」

 ぱちぱちとした音を聴きながら、コナンはタイミングを見計らって、口を開いた。

「おめー、なんで学校に来ないんだよ?」

 火花はやがて激しさを増していく。映画に例えるなら、一番の盛り上がりのシーンだ。恋愛映画であれば互いの想いが伝わり、ミステリー映画では探偵が犯人を追い詰めようとしている。
 まだ明るい空の下で激しく打ち続ける火花の音に紛れ込むように、どうして、と哀の声が小さく響いた。

「どうして、あなたは、平然としていられるの……」

 相変わらず視線は手に持った線香花火に向けられたまま、それでも哀の声が震えている事にコナンは気づく。
 こうして二人で肩を並べるのは夏祭り以来だな、とこの場にそぐわない事を思う。あの時によぎった焦燥のかけらは、今も身体のどこかに引っかかったままだ。

「そんなの、決まっている」

 花火の火玉を落とさないように、コナンはゆっくりと顔をあげた。いつからコナンに視線を向けていたのか、哀のまっすぐな瞳とぶつかり、まるで火玉を飲み込んだかのように胃の奥が熱くなった。
 お盆が過ぎた頃、解毒剤製造の失敗について哀から連絡をもらった時、コナンは安堵した。これであの夏祭りの続きを未来に広げられるのだと、正しくない感情に襲われたのだ。
 
「これからも、おまえと一緒に過ごせるからだ」

 やがては火花はクライマックスに向けて小さくなっていく。中心の火玉は自分達の感情を背負っていくように重みを増していく。輝かしい時間はあっという間だ。それでも、夏祭りの夜、人混みを掻き分けるように屋台の中で哀の隣を歩きながら、コナンは永遠を願ったのだ。
 ぽとり、と先に火玉を落としたのは、哀だった。呆気にとられたような表情で、コナンを見つめている。

「何を言ってるの……?」

 夏祭りの夜に自分の中に沸き上がった感情は、非日常に対する刺激によるものだと思っていた。
 だけど、線香花火のように息を潜めながらも小さく燃えていく想いは、日常的に存在していた。少しずつ大きくなっていく火玉のように、彼女の傍にいることで膨らんで、もうこれ以上は抱えきれない。

「おまえを好きだという事」

 哀の後を追うように、コナンの持つ線香花火を寿命を終えたようだった。
 顔を上げると、空は色を変えていた。近くの家々の外灯がいつの間にか灯され始めている。半袖の腕が冷たくなっている事に気づき、夕方にもなればずいぶんと涼しくなっている空気に、ようやく秋の訪れを肌で感じた。
 燃え殻を持ったまま、コナンはゆっくりと立ち上がる。そして、しゃがんだままの哀に手を差し出した。顔をあげようとしない哀に、コナンは苦笑する。
 自分が想うような大きさで彼女が自分を想ってくれなくていい。でも、罪悪感はいらない。懺悔もいらない。ただ、花火ひとつではしゃげる年齢を彼女と一緒に辿っていけるといい。

「灰原」

 コナンの呼びかけに、哀がようやく顔をあげた。水分を含んだ瞳を見て、泣かせたのは自分なのかもしれないという子供では味わえない高揚感が募っていく。

「一緒に歳を重ねようぜ」

 コナンが言うと、哀はコナンの手をとってゆっくりと立ち上がった。思いのほか、体温の通った手のひらだった。子供の手のひら。自分との違いを見つけられないそれらは、いつか変化を見せていくのだろうか。握りしめ合った手のひらで、いつか必ず大人になる。
 屋上に吹き込んだ秋の匂いを含んだ風を、二人で浴びていく。手に持った燃え殻が、手の中で頼りなく揺れた。



7周年記念小説。ありがとうございました(2021.718)
>> 続編「花火は色を変える」更新しました(2022.7.18)→「花火もよう」更新しました(2023.7.18)