君と映した花火


――小学四年生・夏――


 蒸し暑い風の中に火薬の香りが混じった。既に暗くなった空に慣れた目にその光は眩しくて、コナンは思わず目を細める。
 光と音の伝達スピードの違いを体感する。空が灯されてから数秒後、地鳴りのような音が響く。

「綺麗……」

 すぐ横からつぶやかれた言葉に、コナンは目を見張る。
 肩までの長さの髪の毛を器用にひとつにまとめた灰原哀の横顔に、花火の明かりが映る。
 ドン、と音が立て続けに鳴る。この世に闇など存在しないかのように、空には花火が連続で打ちあがり、周囲からも感嘆の声が響く。
 打ちあがる花火を見るための絶好のスポット。人々が密集しているせいで酸素が薄くなっているなかで、とん、と彼女の肩が腕に触れる。藍色に菫を咲かせた浴衣を着た彼女は、自分の知らない人のようだ。



 そもそも灰原哀と二人きりで出かけるという事自体が珍しいのだ。
 小学四年生の夏。毎年のように集まる少年探偵団の仲間達が、いつものごとく勝手に夏祭りに行こうと企画し始めたのが、二週間前の事だ。
 待ち合わせ場所である阿笠邸に向かった時、事態は起こった。一人は別の友人からの誘いを断れなかった事、一人は急に親戚の家に行かなければならなくなった事、一人はあまりにも宿題が進んでいない為に保護者から外出禁止令を出された事。それぞれの理由で見事に三人がそろってドタキャンをかまし、阿笠邸にいたのは既に浴衣を着た哀だけだった。

「なら、行くのをやめましょう」

 そう言ってすぐさま浴衣を脱ごうとした哀を、コナンは待て待て待てと制止した。
 どう考えても日本における一般家庭で育ったとは言えない哀が、元々浴衣の着付を心得ていたとは思えない。おそらくネットや雑誌などを駆使して完成したのであろうその姿を、無下にしていいわけがなかった。

「せっかく浴衣着たんだからさ、二人で行こうぜ」

 コナンが言うと、哀は考えてもいなかった事を提案されたとでもいうように、目をぱちくりとさせた。
 花火があがる一時間前、午後七時の出来事だ。



 何事も、終わり際こそ華やかなのかもしれない。形を変えながら光が地上へと落ちていく。瞬きも許さないほどの数の花が次々と生まれては消えていく。そして最後に、ドン、と大きく彩られた花が闇の中に咲いた時、それを合図にして拍手が沸き起こり、花火終了のアナウンスが響いた。立ち止まっていた人々が歩き方を思い出したかのように動き始め、コナン達も流れに合わせるように、歩き出す。充満した火薬の香りが、自分達をどこかに招いているようだ。
 道路脇に立ち並ぶ屋台は相変わらず明るい。コナンは眼鏡のレンズ越しに屋台の灯を見つめるが、それは先ほど見た光とは別の温度のようで、どこか寂しさを覚えた。狭い通路は人混みで、はぐれそうになる哀の浴衣の袖を思わず掴む。

「……何よ」

 午後八時五十分。祭りの雰囲気とは合わない冷めた声が、コナンに問う。

「いや、迷子になったら困るなって……」

 しどろもどろ答えると、哀は困ったように笑った。二人きりでも祭りに行こう、とコナンが提案した時と同じような表情だった。
 十歳の横顔が、屋台を眺めながら歩いている。細い首元で、後れ毛が揺れている。

「せっかくだから、屋台で何か買っていくか?」

 浴衣の袖を離さないままコナンが訊ねると、哀は肩をすくめる。

「屋台が物珍しいような歳でもないわ」
「そういう歳だよ」

 自嘲する彼女に、コナンは言い返す。

「日常と切り離された空間に舞い上がるような年齢だよ、俺達は」

 目の前の屋台がやたらと行列を作っている。流行りのドリンクを売っている屋台の前で、浴衣姿の女子高生達がアイコンのようにそれらをスマートフォンで写真におさめている。多くの笑い声に溢れたこの空間に、悲壮感は似合わない。
 もう少し歩いていけば、並んだ屋台もなくなってしまう。そうすればこの高揚感から解き放たれた日常が佇んでいるだけで、何を失うわけでもないのに、やけに焦燥感に駆られた。本物の子供のような単純な思考だ。
 この高揚感は、祭りのせいか、それとも普段二人きりになる事もない彼女と一緒にいるせいなのか。

「江戸川君」

 あと数メートルで屋台が並んだ景色が終わる。それでも哀もコナンも、前に進む足を止められない。
 コナンの隣で、哀が澄んだ声でつぶやく。

「解毒剤、もうすぐ完成できると思うんだけど」

 まるで明日の天気について話すような、淡々とした彼女の話し方に、突然のように変化した気圧に投げ込まれたようなめまいに襲われ、コナンは足を止める。おかまいなく歩き続ける哀の浴衣の袖を、思わず離してしまった。しかし現実のすぐ手前、人の多さも祭りの中心部とは違い、この場所でははぐれる事もない。頼りない灯りが不安定に揺れる。
 何よりも望んだ正しい世界に近づいているというのに、何を迷うというのだろうか。手のひらから、菫が咲いた浴衣の木綿の感触が消えない。
 屋台に寄り道をするわけでもなく、ただ花火を見るだけで終わってしまった祭りの夜。花火を咲かせた空は、まるで宇宙のように、人々を浮遊させて迷い込ませるような空間だった。
 哀が歩くたびに彼女の下駄の音が鳴る。少しずつ押し寄せてくる静寂に、コナンは視界を取り戻す。灰原、と彼女の名前を呼んで、その背中を追いかける。十歳同士の、友達とも呼べない関係性の二人で過ごす時間は、あとわずかだ。
 哀の隣に追いつき、今度は彼女の手を握る。木綿よりもずっと温度の通った感触に、ほっとした。

「……何よ」

 怪訝な表情でコナンを見上げる彼女の視線に胸をしめつけられるこの痛みの名前を、コナンはまだ知らない。鼻の奥がつんと痛んだのを誤魔化すように、彼女の手のひらをつよく握る。
 この瞬間が永遠だったらいいのに、と正しくない感情を正当化したくなる。

「博士ん家まで送るよ」

 それだけ言い、今度はコナンが先導するように歩く。限りのある時間を、また一歩踏みしめる。コナンより少し後ろを歩く哀の気配を探る事もできない。何事も、始まりは単純でも、自ら終える事は難しい。
 花火が綺麗なのは、刹那で儚い光だからだ。今この瞬間の時間も、花火と同じように美しかったのだと思い出すのだろうか。この手の温もりを、思い出のひとつにする日が来るのだろうか。
 そんなの耐えられない。そう思うのに、言葉はもう出てこない。耳に響くのは、下駄の音だけ。感じる温もりは、手のひらに宿る感触だけ。まばたきするたびに瞼の裏に映るのは、闇に咲く花火だけだ。



6周年記念小説。ありがとうございます。(2020.7.18)
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