雨が降り続けている。退屈な現代文が音読されている国語の授業中、江戸川コナンは窓の外に視線を向ける。
今年の梅雨前線は日本列島を好んでいるらしい。もうすぐ夏休みになるというのに、梅雨は明けない。コナンは先ほど返されたばかりのテストの答案用紙を眺める。
問題に対して正解と不正解を示すのに、赤ペンを用いるようになったわけを考える。赤色は、信号で例えれば止まれの意味。おとぎ話に出てくる赤いリンゴは、毒を持っていた。
「江戸川、放課後になったら職員室に来なさい」
授業が終わるチャイムと共に国語教師かつ担任から放たれた言葉に、教室内がまたか、とざわめく。コナンは教科書を閉じながら視線を跳ね返す。不格好に折り畳まれた答案用紙には、見事に赤色が散らかっていた。
「おまえはいつになったらやる気を出すんだ」
終業式の前日になっても、放課後の職員室内にはさほど関係ないらしい。高揚感と蒸し暑さで溢れ返った校舎の廊下とは違い、空調の効いた職員室内は疲れた教師達が机に向かっていた。コナンと同じように担任に呼び出された生徒もいるようで、ここだけ時代に取り残された空間のようだ、とコナンは思う。
「俺はいつでも全力ですよ」
「嘘をつけ。日頃のおまえの言動を見ていたら赤点スレスレなはずがないんだよ」
「ギリギリ赤点を超えているから問題ないでしょ」
「そこもおまえの計算ずくだろうが……」
灰色のキャスター付きの椅子に座っている教師が、眉に指を当てて顔をしかめた。
中学二年生という日々の中。コナンにとっては新鮮味のかけらもない学校生活だ。教室の二倍の広さのある職員室は、粘土のような匂いがする。大きな窓の向こうの景色は相変わらずだが、コナンが先ほど見た三階の教室からの景色とは違い、一階から見る雨模様はより閉鎖的で、息苦しい。
そこへ、コナンがいる場所とは逆側のドアが開き、失礼します、と澄んだ声が聞こえた。決して大きな声ではなかったのに、その声は心地よく耳に響いた。それは担任も同じだったのか、一瞥をした後、再び突っ立ったままのコナンを見上げる。
「そういえばおまえ、D組の灰原と家が近所だろう?」
担任の頭越しに、灰原哀の姿が見える。彼女も教師に呼び出されたのか、窓際に座っている女の教師にプリントを渡しているようだった。
「そうですけれど……」
「それならさ、灰原にどうにかしてもらえよ」
事情も知らない担任が無責任に発言する中、コナンは視線だけを動かして灰原哀の様子を探る。彼女は学校の中でも一目置かれる存在だった。だから、彼女の担任でもないコナンの担任が哀を知っているのも問題ない。才色兼備という言葉をそのまま再現したように、哀は過ごしている。
とは言っても、コナンが哀の姿を見たのは久しぶりだった。夏服のセーラー服に包まれた彼女の背は、記憶よりも少し高くなっているようだった。髪の毛の長さは変わらないので、定期的にカットしているのだろう。出逢った時から変わらない襟元の毛先からうなじが見えそうで、コナンは生唾を飲み込む。
「――おい、江戸川、聞いてるのか?」
目の前の担任からの声に、コナンは我に返る。
「何の話でしたっけ?」
「おまえなぁ……。このままじゃおまえのご両親との面談も必要になって来るぞ。いくら義務教育とはいえ、この成績は問題だ」
それは困る。コナンは視線を落とした。江戸川コナンの両親なんて存在しないのだ。本来のコナンの両親に変装してもらう事は可能だが、この姿で生きると決めた以上、彼らには余計な負担をかけられなかった。
黙り込んだコナンに、担任は嘆息する。
「おまえの人生、いい加減真面目に考えろ」
十年前ですら言われなかった言葉を偽物の中学生になった今浴びている事に、コナンは内心笑うしかなかった。担任の言葉は自分を思ってのものだという事は承知している。
生返事をして、職員室を出る。廊下には先ほど同じ空間にいたはずの灰原哀が立っていた。
「お疲れ様」
窓の外の雨模様とは無縁のように爽やかな雰囲気を漂わせている哀は、まっすぐとコナンを見つめていて、ああ彼女は自分に話しかけているのか、とコナンは鈍い思考を巡らせる。
「オツカレ。おまえが職員室に呼ばれるなんて、珍しいな」
嫌味を込めて言ってみても、哀の表情は変わらない。
「クラスの提出物を集めていたのよ」
「あー、そういえば学級委員だったっけ」
「別になりたくてなったわけじゃないけれど」
背中に背負ったリュックが重い。放課後の学校の雰囲気は、軽やかさと重厚さが混ざっている。授業からの解放感、部活へのプレッシャー、勉強に恋に友情に夏休みに、中学生は忙しい。
哀の手にも指定の鞄があることから、なんとなく並んで昇降口まで向かう事になってしまった。このまま一緒に帰路を辿るのだろうか。小学生の頃に戻ったみたいだ。
「あなたはどうして職員室に呼び出されていたの」
事情を知らないわけでもなさそうなのに訪ねてくる哀に、コナンは履き替えたスニーカーのかかとを地面に押しつけながら、玄関の硝子戸の外を見る。カラフルな傘が視界に入る。制服や校則といったものに縛られているからこそ、閉塞感から逃れる為に中学生達は憂鬱な雨の日には色とりどりに日常を飾るのだろう。
「成績が悪いから」
ドアを出て紺色の傘を広げながら答えると、隣で哀が盛大にため息をついた。
「何してるのよ……」
彼女の質問は正しい。二度目の中学生で、しかもほんの少しの間でも日本の救世主だともてはやされた人間が、授業についていけない事実なんてありえないのだ。
「特に理由はないよ」
何しているの、という彼女による呆れを表す疑問はそのままコナン自身に振りかかる。
狭い歩道は十年前と変わらない。哀の横を歩くたびに、傘同士がぶつかり、大きな水滴が足元に落ちた。車通りの多い幹線道路、濡れたアスファルトと水しぶきの音が耳に残る。
いつからこうなってしまったのだろう。小学四年生くらいまでは、彼女と会う事は特別でも何でもなかった。ただの日常の中に溶け込んでいた景色が、いつの間にか遠くなってしまった。
彼女の為に。彼女の為に。そう言い聞かせて離れたのは、自分だったのに。
「理由がないなんて、そんなわけないでしょう」
結局自分が彼女から離れたところで、彼女の罪悪感が減るわけではない。
ようやく車通りの少ない閑静な道路へと入り、先ほどよりも広い距離を持って、それでも彼女の隣を歩く。子供の頃からいつもそうだった。彼女の隣にいる事を許されていた。
哀の持つ傘が視界に入る。彼女に似合う赤色の傘。赤色は愛情を示す。赤色は、情熱の表れだ。
「担任に、おまえにどうにかしてもらえば、って言われたんだけど」
自嘲気味にコナンがつぶやくと、哀は立ち止まり、傘の下からまっすぐに視線を寄越した。
「私にできること、何かある?」
真面目な彼女はコナンの言葉をそのまま受け止めているのだろうか。もしくは、今でも罪悪感を背負っているのかもしれない。そんなつもりじゃないのに、とコナンは紺色の傘の下で舌打ちをする。
雨が強くなり、傘へ落ちる水滴の重力が振動として柄を握る手の平へと伝わってくる。
不快な湿度と温度で、首筋に汗が滲んだ。彼女の視線によって自分の後ろめたさが暴かれているようだった。
彼女の為だと理由を付けて、距離を置いてからは無気力の日々だった。灰色の雨景色が視界に滲んでいくように、少しずつ世界の色を失っていった。
「おまえにして欲しい事、ひとつだけある」
コナンが傘の柄を手から離した途端、歪んだ音を立てて傘がアスファルトへと落ちる。無防備になった瞬間、冷たい雨粒が髪の毛や眼鏡を濡らしていく。
「……何をしているの?」
傘をさしたまま怪訝な表情で見上げてくる哀を無視して、コナンは哀に近付く。赤色の傘の下に入り込んで、そっと彼女を抱きしめる。濡れた自分のせいで、彼女にも水滴が移っていく。
生地の薄い夏服のおかげか、彼女の体温が微かに伝わってきて、胸がしめつけられるように痛んだ。呼吸をするのも苦しい。
「江戸川君……」
突然の出来事に拒絶するわけでもなく抱きしめ返すわけでもなく、哀はただコナンのその姿を受け入れてくれているようだった。
「あなたの人生はあなたのものだけど、自分の力ではどうにもならない事はあるわ」
雨音の中で、彼女の声が優しく響く。だけど。
「違うんだ、灰原」
顔をあげて、コナンは正面から哀を見つめた。
「俺は、ただ逃げていただけなんだ……」
受け入れていたつもりだった。この身体も名前も環境も、悲観する事もなく、とうに馴染んでいるものだと思っていた。それなのに、哀の傍を離れてから少しずつ何かを蝕まれていった。
今なら理由が分かる。それは、とても単純なもの。
「俺の人生をどうにかできるのは俺だけど、それだけじゃない」
彼女の頬にそっと触れて、その冷たさを知る。
「俺にはおまえが必要なんだ」
この感情を単純なものに置き換える事はまだ怖い。それでも、彼女の傍にいられない無色な日々に比べたら、それすらも受け入れていかなければと思う。江戸川コナンという者の人生。前に進む為に必要なみちしるべ。
自分を見つめる哀の頬が赤いのは、自分のせいなのか、赤い傘の下にいるからなのか。しばしの沈黙の後、ふっと笑いを零した事で空気を変えたのは、哀だった。
「この先の人生、まだまだ長いわ」
降り続けている雨が止んだら、梅雨は明けるかもしれない。夏休みが始まれば、蝉の音と共に朝がやって来るのだろう。季節が流れても、景色が変わっても、どんな事があっても彼女の隣にいられるのは自分だといい。
今になって緊張を覚えて押し黙るコナンに微笑んだ哀が、傘を閉じる。容赦なく水滴が彼女の髪の毛を、肩元を、湿らせる。雨音の中、まるで世界と遮断された空間にいるようだった。
「私があなたの傍にいる」
雨によって彼女の癖がかった前髪が額に貼りつき、白いセーラー服が透けていく。職員室で彼女のうなじを見た時と同じ戸惑いを覚え、コナンはアスファルトに置きっ放しにしていた紺色の傘を拾い上げて哀と自分の上に傘を広げるが、今更無意味に思えて、二人で笑い合った。
「とりあえず、おまえん家でシャワー貸して。このままじゃ風邪ひいちまう」
「私の家じゃなくて博士の家ね。というか、そもそもあなたが先に傘を落としたのが悪いんでしょう?」
再び歩き出し、帰路を辿る。まるで小学生の頃のように軽口を叩き合う事にすら懐かしさを覚えるが、失っていたはずの景色がよみがえる事に胸が震えた。哀の透けた制服から視線を背ければ、彼女の手に持つ畳まれた傘がちらりと見える。赤色は、未来を灯す。愛情に満ちた時間をこれから作っていけるだろうか。
もうすぐ雨があがり、空には今日最後の光が差し込む事を、コナンはまだ知らない。
(2019.7.18)
5周年記念小説。ありがとうございます。