call my name

 博士と初詣を終え、帰って夕食の支度をした。いつもの時間になってもやって来る気配のない隣人に哀はため息をついて、玄関を出て隣の工藤邸へと向かう。
 チャイムを鳴らしても返答がないので、合鍵で入る。その鍵は、関係が出来てから作られたものだった。何の目的で渡されたのか今でも哀には謎だが、それは時々こうして使われている。

「江戸川君?」

 だだ広いその家は、玄関を越えても生活感がまるで見えない。ただ外の空気とはまるで別の温い気温に人の気配を感じる。慣れた足取りで広いリビングに向かうと、ソファーでコナンが読書していた。

「…江戸川君?」
「え?」

 ようやくあげたその顔は昔から変わらない。好きなものに熱中したその表情はどこか幼さを残していて、胸を撫で下ろしたくなる。

「あ、灰原…? 戻ってきてたのか?」
「とっくに。もう夕食の時間よ」

 哀に言われるまで気付かなかったらしい。コナンは読みかけた本を置いて、静かに立ち上がる。

「博士はどうだった?」
「…泣かれたわ」

 つい先ほどの出来事を哀は話した。幸せになっていいという言葉は温かく胸に沁み入った。どこにでも溢れた普遍的で陳腐なその言葉は、博士が発することでようやく意味を持った。

「灰原…」

 工藤邸を出てすぐ隣の阿笠邸に向かうほんの数メートルの間でコナンは立ち止まり、哀を呼んだ。三歩ほど離れた位置で哀は振り返る。

「どうしたの?」
「…ごめん」

 コートのポケットに手を突っこんだまま、コナンはまっすぐに哀を見つめた。

「ずっと…、二年も、宙ぶらりんにしたまま曖昧にしてて、ごめん」

 その声はとても痛々しく響き、哀はそっとコナンに寄った。暗がりの中の外灯の下、それでも暗くてコナンの表情はよく見えない。

「そんなのお互い様だわ」

 震える声で謝罪するコナンに、哀はきっぱりと言い切る。
 確かに曖昧なまま関係を続けたのはコナンのほうかもしれない。だけど断らなかった哀も同罪だ。何より、哀だってその関係に名前がつくことをずっと恐れていた。
 コナンに恋をしていたけれど、恋人になりたかったわけではない。薬のデータが消えた時に内心歓喜したくせに矛盾していると思う。だけど、ただコナンに幸せになって欲しかったのだ。彼の愛する場所に還したかったのは本当だ。だから抱き合っても恋人になれるわけではないと分かっていた。
 弱々しくうなだれるコナンに哀はそっと近付き、震える唇にキスをした。その唇は外気によって冷たく乾いていた。

「それだけの時間が必要だったのよ」

 あんなに惑わされないと決めたのに、彼の心が見えた瞬間にもっと欲しいと思ってしまう。欲深い自分を嫌悪することもあるけれど、そんな自分を嫌いじゃないと哀は思う。
 そして自分にそんな感情をくれたコナンを愛しいと思う。
 コナンは哀にすがるように抱きついた。いつかの朝を思い出して、哀の心が痛む。

「さぁ、博士が待っているわ。早く夕食にしましょ」

 哀が言うと、コナンはようやく小さく笑い、そうだな、とつぶやいた。