様々な想いに囚われて生きていくのが人間であるならば、なんて悲しい生き物だろう。
7.もうやめましょう
―――あなたは逃げているだけだわ。
昨日の哀の言葉が鼓膜から離れない。
コナンは校舎の屋上のフェンス越しから運動場を見下ろす。どこかのクラスの体育の授業では、ドッヂボールの試合が行われているようだ。ひどく懐かしい光景に思えた。
(俺だって中学生のくせに)
遠い昔の思い出が脳裏をかすめた。なんて自虐的な行為。
ため息をついて顔を上げると、空は恨めしいほどに青く広がっている。時折吹き抜ける風が頬に触れて痛い。その冷たさに顔をしかめた。
ギィ、と屋上の入り口の扉が音を鳴らし、反射的に振り返ると、
「…ここにいたのね」
哀と目が合った。その途端、コナンから先に顔を背ける。そんなコナンを気にする様子も見せず、哀はこちらに歩いてきた。
「吉田さんが探していたわよ。あなたがサボるなんて珍しいじゃない」
そのまま哀もコナンの隣に立ち、フェンスにもたれた。その振動がフェンスを通してコナンにも伝わる。しばらく沈黙が走り、
「…昨日は言いすぎたわ」
先に口を開いたのは哀だった。その声にコナンは哀を見る。太陽に照らされた横顔を反射する茶髪が眩しい。
「おまえがそう言うのも分かる気がするよ」
―――逃げているだけだわ。
そんなつもりはなかった。決意と覚悟で生きてきたつもりだ。ただ時々正体不明の不安に襲われたとき、コナンはその対処法を見つけることができず、哀をがむしゃらに抱いた。
(もう工藤新一に戻る必要はない)
それを逃げだと責められても仕方なかった。工藤新一が死んだと告げ、蘭との未来を失った日のコナンの行動は、哀の目にはきっと不格好に映ったのだろうと思う。自分でも情けなくなるくらいだから当然だった。
哀も身体ごとコナンを向き、身長差の出来たコナンを見上げる。その口元は意思を持って、
「もうやめましょう」
コナンの瞳を見つめて、はっきりと言った。
「…何を?」
「私達の関係よ」
「……」
突然の科白に、コナンは思考を巡らせる。だけどどこかでその終止符を分かっていたような気もしていた。
「…なんでだよ?」
かすれた声が出て、ますます情けなくなる。たった一言しか返せないコナンに、哀は目を伏せた。
「いい機会だと思わない? 私達はお互いを知りすぎてこんな風になったけれど、この身体で生きていくと決めたならば、もっと広い世界で生きていくべきなんだわ」
哀の言うとおり、二人は秘密を知るお互いを必要としていた。そして幼馴染とも呼べる少年探偵団。未だに構築された人間関係はそれだけだ。コナンにはそれ以外必要なかった。
だけど哀は世界を広げて、進学先も決め、灰原哀としての人生を過ごす覚悟を持ったのだろう。
(…俺はどうなんだろう)
未来はいつだって歪んでいる。だけど哀が隣にいてくれれば、酸素を吸い込んで呼吸ができるくらい自然でいられたのに。
「それじゃ…」
そのままコナンの顔も見ず、哀は背を向けてゆっくり歩いて行った。扉の音が重く響く。閉まる扉をぼんやりと見つめた。
工藤新一の未来を閉ざした時と同じ喪失感だけが胸に残る。
あの頃に決めた人生には、哀が必要だった。