5-2

 始まりに理由はないと唱えたのは、誰だったか。


5.Old years -関係の始まり-(1)


 中学校に入学してから始めた一人暮らしに慣れた頃、小五郎に呼び出されて久しぶりに足を踏み入れた探偵事務所の煙草臭い匂いを懐かしく思っていると、蘭から報告を受けた。

「結婚するの」

 はにかむように笑う蘭は、世界の幸福を独り占めしたような表情で、

「本当は彼も連れてくる予定だったんだけど、仕事が入っちゃって。でもどうしてもコナン君には会って伝えたかったの」

 その笑顔は高校時代から変わっていない。だけど左手薬指のリングを右手で撫でながら艶やかに話す彼女は、どこか遠い人みたいだ。

(あんなに一緒にいたのに)

 目の前の景色がぐらりと揺れた。
 すぐに仕事選ぶ男なんかやめとけ、と悪態を突く小五郎に、お父さんと違って真面目なのよ、と口を尖らせる蘭を見ながら、足元がおぼつかなくなる。
 その後、久しぶりに三人で食事を摂ったが、砂を噛んでいるようだった。
 幼い頃から傍にいた彼女が幸せになる。なのに、なぜこんなに取り残された気分になるのだろう。



 ふらつく足取りで帰ったのは、自分の住む家ではなく博士の家だった。
 チャイムを押すと灰原が出てきて、意外そうに目を丸くした。

「探偵事務所で食事をしてきたんじゃないの? 早かったわね」

 まるで自分の役割は食事係だと嫌味を言わんばかりの態度だ。俺は無言のままリビングに入り、ソファーにうなだれた。中には灰原以外誰もいない。やけに静かだと思えば、そういえば博士は学会の出張で不在にしていたことを思い出す。

「…江戸川君?」

 いつもと様子が違う俺に、灰原は首をかしげる。いつものようにコーヒーを淹れてくれたけれど、カップに手を伸ばす気力もない。

「蘭が、結婚するらしい」
「え…?」

 ソファーに伏せたままの俺の顔を覗きこむ灰原は、中学生になってから更に美しさに磨きがかかった。すでに何人かの男子から告白されているという噂だ。ずいぶん昔に見たことある彼女の大人の姿は美人だったと記憶しているので、多分これから更に綺麗になるんだろう。

(…俺の知らないところで)

 そんな彼女が一度俺と目が合うと、目を伏せ、そのまま床にしゃがみ込んだ。やばい、と直感的に思った。

「灰原」

 俺は慌てて起き上がる。彼女を泣かせるわけにはいかないのだ。
 ソファーから降りて灰原の傍に寄り、手を伸ばすと無言のまま手を振り払われた。行き場のない手が宙を彷徨う。
 灰原の目から大粒の涙が床に落ちた。彼女の涙を見たのは、あの日以来だった。

(工藤新一が死んだあの頃)

 ―――忘れるはずがない。
 いつも無表情を貫く彼女が、初めて見せた俺への本音だったのだ。

「灰原…」

 実際は俺より年上で、いつも俺に助言をくれた彼女が、小さく見えた。ひたすら声を押し殺して涙を流す彼女の肩を思わず抱いた。彼女に触れたのも、あの日以来だ。
 灰原はびくりと小さく震え、俺のジャケットの裾を掴んだ。

「ごめんなさい」

 消えそうな声が耳に届く。

「おまえのせいじゃないって何度も言ってるだろ」
「本当に泣きたいのはあなたなのに」

 顔を上げた灰原の瞳が俺をとらえる。その翡翠の瞳には弱々しい俺が映っていて、思いもよらない言葉に、その眼差しに、吸いこまれそうな感覚に陥った。

(本当に泣きたいのは…)

 何か言わなければと思うのに、口元が震えて言葉にならない。否定しなければならないのに、真正面から見つめてくる灰原さえもどこか輪郭が曖昧になり、

(泣きたいのは、俺?)

 蘭との未来を失った頃の喪失感が生々しく胸を圧迫する。
 そして想いを閉ざされた歩美の気持ちの向こう側。日々大人っぽい表情を見せる灰原に対する焦燥感。
 さまざまな感情が胸を渦巻き、耐えられなくなり、思わず灰原に口付けた。