プロローグ

 寝室にある鏡を正面から見つめながら、襟元を両手で整えていると、鏡の端に人影がそっと写った。

「哀、準備できたか?」

 鏡越しに目が合った彼は、そのまま口を閉ざしたかと思うと、静かに背後に立って、そして哀を抱きしめた。

「…江戸川君?」

 彼らしからぬその行為に、哀は目を見開く。背中越しに伝わる体温が心地よい。
 哀はつい先日までの、中学生をしていた頃の自分を思う。そして、小学生に逆戻りして過ごした時間も。
 今日から彼らは高校生になる。

「その制服、似合っている」

 かすれた声が哀の耳元でつぶやかれる。哀は少しだけ笑って、体を回転させて彼を見上げた。

「あなたもよ」

 彼の襟元のネクタイに触れる。
 数年前までは同じ高さの肩を並べて歩いていたのに、今では見上げないと視線が合わない。そして哀を呼ぶその声は低くなり、大きな手の平で哀を包んだ。

(それだけの時間が、私達には必要だった)

 その大きな手が哀の髪の毛に触れ、そのまま肩に腕を乗せて顔を近づける。

「キスしていい?」

 …朝から何をほざいているのか。哀は無表情でため息をつく。

「嫌よ」

 額がくっつくほど顔を近づけたまま、哀の冷たい返答にも堪えず、何がおかしいのか彼はあどけなく笑う。
 その無邪気な笑顔に、少し安堵する。ここ数年、彼は確かに笑顔を見せていたけれど、それは表面上のもののような気がしていた。だけど、これは本心によるものだと哀は思う。そう信じようと思う。
 そして、今こうして穏やかに見つめ合える事実がとても不思議だった。こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。

「…遅刻しちまう。そろそろ行こうぜ」

 哀の手が大きな手に取られ、二人で寝室を出て、階段を下りる。
 玄関を出れば、まだ冷たい春風が舞い、眩しい朝日に哀は目を細めた。
 そっとつながれた手。この手の温もりは、紛れもない“今”の真実だ。