6.ミスターB
喪失にあるその先について考える。
教室窓側一番後ろの席で、光彦は机に頬杖をつきながら数学の教科書に乗った数列を眺めた。項の番号が大きくなるほどその数列は収束されていく。凹凸の物事も、時間が経つにつれて少しずつ均されて平面になっていくのだろうか。さざ波が打ち寄せた後の砂浜のように。
教室内もまさに同じだ。社交性だとか運動神経だとか成績だとかで作られたヒエラルキーも、凹凸を強制的に滑らかにしていく作業も、時には必要なのかもしれない。光彦は窓際一番後ろという特等席から教室内を眺めた。あらゆる色を持った生徒が並んだ中にある、二つ並んだ空席が主を失ったように寒々しく空間を作っている。
三学期から姿を見せなくなったコナンに続き、哀もいなくなってしまった。
「オレのせいかもしれねえ……」
久しぶりに三人で集まったファストフード店で、珍しくハンバーガーもポテトも注文していない元太が、コーラの入った紙コップに視線を落としたまま言った。
「元太君、どうしたの?」
光彦の前に座っている歩美も浮かない顔をしている。当然だった。やっと戻ってきたはずの親友が、また消えてしまったのだから。
駅前にあるファストフード店には学生が溢れ返っているせいで、暖房との相乗効果によって空気がこもったように暑かった。笑い声や陽気な話し声などが響いている中で、光彦達の座る四人席だけがぽっかりと沈んでいるようだった。
「灰原にひどいことを言っちまったんだ」
コーラーに口を付けずに話し出した元太の言葉をまとめると、数日前に偶然会った哀と話した際、元太は哀に問い詰めてしまったのだという。コナンの記憶喪失や哀の不在について、たとえそれが理不尽のものだったとしても責めたくなる気持ちは光彦にもよく分かる。かっちりとした回答を得られない不安は、少しずつ心を蝕んでいくものだから。
――もう行くわ
だから、校舎の寒々しい階段を降りて行った哀を止められなかった。
三年前は事故が原因だったが、今回のコナンの立ち去りはコナン自身の意思だ。年明け以降、音沙汰のないコナンに対する思いの答えを見つけられないまま、哀の別れの言葉も受け入れられないまま、それらの事実はささくれのようにチクチクと光彦の心を刺し続けている。
「歩美もね、哀ちゃんとの約束をドタキャンしちゃったの……」
子供の頃のような声色で、歩美もつぶやいた。
「冬休みに哀ちゃんと図書館に行く約束をしていたんだけど……、それからずっと会えないまま」
もしもあの時こうしていれば。後悔に押しつぶられそうになった時にあらゆる仮定を想像しては、目の前に広がる現実に絶望する。どんなに過去を悔やんだって、コナンも哀もここにはいない。
自分達はどこまででも第三者だ。コナンと哀の共有する喪失にはどうやったって入り込めない。だから不甲斐なくて、やるせなくて、焦燥感でいっぱいになる。
「コナン君と哀ちゃんは、今は一緒にいるのかな……?」
ホットティーの紙コップを両手で囲いながら冷えた指先を温めようとする歩美の声には、期待や願望がにじんでいた。
その回答を得られないまま、光彦はホットコーヒーを飲み込む。
夕方の六時。大きな窓ガラスの向こうではすでに駅前の外灯がひしめき合っている。冬至を過ぎたとはいえ、夜の訪れはまだ早い。
「コナンは灰原の事をまだ忘れたままなんだよな?」
苦渋の表情を浮かべながら、元太は言う。
「事故から戻ってきたコナンにとって、何が変わっちまったのかな」
刺激に溢れた幼い頃の時間などなかったように、コナンは世間における事件に興味を持たなくなってしまった。記憶喪失の対象はおそらく哀だけではない。強い感情の伴うものほど忘却が強くなっているのだとしたら、喪失の先にあるコナンの世界は裏返っているのだろう。コナンが本来の自分について何一つ覚えていなかった事が何よりも証拠だ。
コナンは何を求めて去っていったのだろうか。哀はしかるべき場所に戻ってしまったのだろうか。再び後悔の念が押し寄せて来た時、テーブルに置いてあった光彦のスマホが震えた。画面に表示されたメッセージを見て、光彦は目を見開いた。
「私達にとって、コナン君は何だったんだろう」
歩美の問いを聴きながらスマホ画面をタップした光彦は、メッセージアプリで送られてきた写真を眺め、苦笑をこぼした。
「言うなれば、ミスターBといったところでしょうか」
(2023.4.19)