三年目のあの朝。
スニーカーを履いた右足親指の靴擦れは、まだ少々痛んでいた。朝にシャワーを浴びた後、今度は自分で絆創膏を貼り替えたばかりだった。
浴衣を脱いだことで、昨夜に近付いた日常に埋もれそうになる。日常とは逃亡の終了を示すもので、東京から数百キロ離れた場所でも緊張を強いられた。
浴衣のレンタルショップを出てからも、リュックを背負ったコナンの隣を歩く。今この瞬間こそがひどく儚く思えて、夏の空気が肺一杯に広がり、目の奥がつんと痛んだ。
「大丈夫か……?」
「ごめんなさい、大丈夫よ」
あらゆる感情を誤魔化すように、哀はしゃがんでスニーカーの靴紐を直した。自分の身体に違和感があるのは、靴擦れのせいではない。そしてコナンもそれを知っているから気遣っていて、その気遣いは今の哀にとって痛く沁みた。
まだ身体の中にコナンの熱が張り付いているようだ。
できるだけ身体の変化を意識しないように靴ひもを結び直した時、
「どうかされましたか?」
穏やかな声とともに首元に冷たいものが触れた。鋭利な何かが皮膚をやわく刺激し、哀は自分の状況を把握する。人通りの多い場所で、しゃがんだまま目線だけではコナンの姿は探せない。
「灰原哀。プランBを提案しましょう」
「……プランB?」
「このままおとなしく我々に従えば、江戸川コナンには関与しません」
答えはただ一つ、首を縦に振る以外に方法はなかった。
◇
「知らなかったのよ……」
目の前にあるコーヒーは、いつの間にか冷めてしまった。
弱々しくつぶやいた哀の前の前で、元太は怒りの表情を少々緩めたようだった。
「知らなかったって……、コナンの記憶の事か?」
元太の落ち着いた問いに、哀は首を縦に振った。
コナンが交通事故に遭ったと知ったのは、研究組織の言われるがまま海外に渡ってから二年以上が経った頃だった。そして、つい最近までコナンの記憶障害について知らされなかった。
哀を欲しがったのは、海外に拠点を置く研究機関だ。強引で犯罪的な手口で哀を取り込んだが、研究内容としては合法的なもので、世界に渡る医薬品の開発にも携わっていた。
哀の不在については学校側や博士には一方的に説明されたと聞いていたが、コナンについては何も知らされなかった。哀が激変した環境に身を置いた代わりに、コナンは変わらない日常を送っているのだと信じ込んでいた。
たった半年前までは。
「もしかしたら、それを知ったから米花町に戻って来たのか?」
元太の鋭い質問に、哀はもう一度首を縦に振る。
研究漬けの海外での暮らしで、コナンを忘れた事はない。澄んだ瞳の色も、自分の名前を呼ぶ声も、一度だけ触れた体温も、全部。
湯気さえたたなくなったコーヒーを前に押し黙った哀に、「そっか」と元太はつぶやいた。先ほどの怒りはもう見えなかった。
ファストフード店の前で元太と別れ、哀は帰路を辿った。
一月の夕方の空は、すでに暗い。駅から離れていくたびに明かりは外灯と車のヘッドライトのみになっていく。
住宅街に入ると、家々の明かりが温かく漂っている。哀の暮らす阿笠邸も例外ではなく、大きな窓からは柔らかい明かりが漏れている。
門の前に立ち、哀はゆっくりと左側に視線を向ける。大きな洋館は明かりのないまま、外灯のみを受けて静かに佇んでいるようだ。人が住んでいるとは思えない静けさは、哀の心を痛めつける。
だから、哀は帰宅をするのが怖い。怖いのに確認せずにはいられない。今夜もコナンが工藤邸に帰っていない事を確認した哀は、ため息をついてポストを開けた。
家に籠って研究をしている博士が一日ポストを開けない事は珍しくなく、今日も封筒たちががさがさと入っていた。ダイレクトメールの他、博士の仕事関係の封筒、何かの請求書、そして。
「え……?」
見覚えのない封筒がひとつ。派手な消印はアメリカのもので、それはエアメールだった。
差出人は江戸川コナン。封筒はずっしりと重く、哀の冷たい手のひらに乗った。