「また二週間後にこの場所で会おう。いい返事を期待しているよ」
黒いセダン車が去った後、哀はしばらくその場に立ち尽くした。
身体が幼児化して、灰原哀として暮らし始めてから七年が経とうとしていた。警察や公安などを巻き込んで、哀を脅かす組織は解体し、平穏な生活を手に入れていた。
まず脳裏によぎったのは、コナンに伝えるべきかどうかだった。コナンは中学生になっても事件に出会ってはその推理力を発揮し、活躍していた。正義感に満ち溢れるコナンが哀のおかれた状況を知ったら、きっと無茶をする。だからと言って、コナン自身も当事者で、巻き込まれないなんて考えられない。
悶々と過ごした数日後の夜、哀はコナンの住んでいる毛利探偵事務所に出向いた。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
ビル三階の玄関のドアの向こうには生活の匂いが漂っていた。まだ二階の事務所も電気がついていたから家主は仕事中なのだろうけれど、コナンがこの家で生活の基盤を築いている事を思い知らされる気配を浴びて、哀は訪問を後悔した。
何も言えなくなった哀にしびれを切らしたのか、コナンは哀の手を取ってゆっくりと階段を降りた。スニーカーを履いた足音が、狭い空間に響き渡る。途中の毛利探偵事務所のドアの向こうからは、人の話し声が小さく響いた。
七月の夜の空気はじめっと重たい。公道に出ると閉塞感から解放されたからか、その分繋いだ手のひらからコナンの体温がリアルになった。
「江戸川君……」
数日が経っても、黒いセダン車とスーツ姿の男達の姿が思考を邪魔する。幸いなことにすぐに夏休みに入った事で登下校中に怯える事はなかったが、阿笠邸で過ごしていても心配事が減るわけではない。むしろ、約束の期日は日に日に迫り、いてもたってもいられなくなった。
彼らはきっと、表向きでは合法を謳うれっきとした研究機関の人間だ。
「どこでもいいから、逃げたいわ」
哀がそう言うと、コナンはじっと哀を見つめた。以前よりも大きくなった身長差。眼鏡のレンズの向こうにあるコナンの瞳は今日も綺麗だとこんな時に哀は思う。
繋がれた手は離れることなく、むしろ力が強まった気がした。湿度を含んだ夜風がコナンの前髪を揺らし、ふとシャンプーの香りが漂った。Tシャツにジャージという簡易な服装のコナンは、もうシャワーを浴び終えた後なのかもしれない。
「いいぜ」
コナンの澄んだ瞳が哀を映す。
決して楽観的ではなく、注意深い性格であるコナンが後先考えずに行動するはずもないのに、翌日の朝、コナンは荷物を持って哀を迎えに来た。ちょうど博士は外出中で、簡単な書置きと共に哀も荷物を持ってコナンと一緒に駅に向かった。
「金なら心配するな」
似合いもしない悪い顔でそう笑ったコナンは、在来線の自動切符売場で切符を二枚購入し、哀を連れて在来線に乗った。
都内を走っている電車内は夏休みを満喫しているような若者やハンカチで汗を拭う会社員で混雑していたが、いくつかの電車を乗り継いで都心から離れていくうちに次第に空いていった。
規則正しく揺れ動く車内の椅子に背を預けているうちに、ちゃんと言わなければと思った。コナンを巻き込んでしまったのだから、何が起ころうとしているのかきちんと伝えないと。
「……江戸川君?」
向かい合った四人席の内のひとつで、隣に座るコナンに向いた途端、肩に心地のよい重みがかかった。哀のすぐそばでコナンが寝息を立てていた。
窓は変わり映えのない山々を映している。いくつの在来線に乗っただろうか。いま自分達はどこを走っているのだろうか。
スマートフォンの電源は入れないようにコナンから強く言われていた。逃げるという事は、痕跡を残さないという事だ。
肩元に眼鏡のフレームが当たり、哀は身をよじる。日の差し込む明るい車内、いつの間にか乗客は二人だけになっていた。
(2022.11.22)