三年前、中学二年生の秋。
警視庁に呼び出された少年探偵団の三人は、衝撃的な事実を告げられていた。
――江戸川コナン君の一部の記憶に、障害があります
それは箝口令を敷かれた真実だった。
夏休みのある日、コナンと哀は出先である地方都市にて事故に巻き込まれたという。二人はしばらく治療に専念し、哀は遠い親戚の元へと移り、コナンが米花町に帰ってきた、というわけだった。
光彦が二人の不在に気付いたのは、夏休みが終わろうとする八月下旬の事だった。毎年のように宿題を終えられない元太が阿笠邸に泣きつきに行った時にはもう、哀の姿はなかった。毛利探偵事務所で暮らしていたコナンも同様だった。
コナンと哀が付き合っているという噂は、中学生になった頃から根強くあった。しかし、光彦にはそれが真実だとは思えなかった。確かに二人の間には他人が介入できないような雰囲気が漂っていたけれど、それは愛だとか恋だなんて言葉で片付けられるほど、単純なものではないと思っていたから。
――コナン君
呼び出された狭い室内で、光彦の声が重く響いた。
――僕のことを、分かりますか
刑事から告げられたコナンの記憶障害について飲み込めないまま、ただ光彦の脳内に浮かんだのは、幼い日々の出来事だった。
楽しい事ばかりではなかった。目を塞ぎたくなるような光景にも遭遇したはずなのに、コナンや哀を含めた五人での思い出は、中学生になった光彦を形成している。
懇願するような気持ちでコナンを見つめていると、やがてレンズの向こうにある瞳が、ふっと細められた。
――光彦
聞き慣れた声が、普段とは違う振動をもって空間に浮かぶ。
――元太も、歩美も、心配かけて悪かったな
探偵団三人の名前をゆっくり紡いだコナンを見て、三人はほっと胸を撫で下ろした。元太は「脅かすなよー」と笑い、歩美は安堵のあまりに涙を流した。しかし、コナンが灰原哀について一切を覚えていなかった。
さらに、コナンにそれらを無理やり思い出させたりしないように大人達から厳重注意をされ、光彦達の間では哀についての話題に触れる事はタブーとなり、いつしか四人で集まる事もなくなっていった。
誰も哀について話す事はなかった。哀が転校してきた今朝までは。
◇
「あがっていけよ」
久しぶりに下校を共にした夕方、当然のようにコナンは光彦を自宅へと招いた。中学を卒業してから、コナンは遠い親戚だという工藤家の住んでいた豪邸で一人暮らしをしている。
コナンに誘われるまま、光彦は門の中への入った。立派なドアの鍵を開けているコナンの背中を眺めながら、子供の頃はこの屋敷が苦手だったことを光彦は思い出した。
隣には一風変わった外見の阿笠邸が建っている。灰原哀は、またそこに住み始めたのだろうか。
「コーヒーでいいか?」
リビングに入ってからはソファーに座るように促され、キッチンへと消えていくコナンに「お気遣いなく」と答えた光彦は、ローテーブルに置かれたものに視線を落とした。
ほどよく乱雑に置かれていたのは、数年前に流行っていたミステリー小説と学校行事のプリント、工藤新一の母親である工藤有希子からのエアメール、そして。
「――何か気になるものでもあったのか?」
顔をあげると、トレイにマグカップを二つ乗せたコナンと目が合った。カフェインの香りが心地よく空間に広がっているのに、なぜか後ろめたさを覚えてしまった。
文庫本の下から見えた一枚の写真。
「ちょっと驚いたんだよな」
マグカップを光彦の前に置きながら、コナンは言った。
「少し前に書斎を整理していたら、その写真が出てきたんだ」
向かいのソファーに座ったコナンは、光彦の視線の先にあった写真を手に取り、光彦に向けた。そこには懐かしい光景があった。
幼い子供達がそれぞれの表情を浮かべてカメラを見つめている。キャンプか何かの時の写真だろうか、小さく印字された日付はちょうど十年前ほどのものだ。
「コナン君」
そこには当然、灰原哀の姿もある。
無邪気な表情でカメラに笑う三人の後ろに、年齢にそぐわない表情を浮かべたコナンが立っている。この頃から二人は特別だったのだと、改めて光彦は写真に想いを馳せる。
「灰原さんのことを、本当に忘れてしまったんですか……?」
小学生の頃の情景は、懐かしさと共に痛みが広がる。
光彦の問いに、コナンは片眉を下げて笑い、光彦に向けられた写真に視線を落とした。
どれくらい時間が経っただろうか、数秒後か、あるいは数分後か、コナンはゆっくりと顔をあげて光彦を見た。
光彦、とコナンは言う。あの頃にはなかった、少しハスキーがかった低い声で、でもあの頃と同じ、深い瞳の色を光彦に向ける。
「見つけたのは、もうひとつ」
コナンは横にあった文庫本を手に取り、ページの途中に挟まっていた紙切れを取り出した。半分に折られているレシートがコナンの手によって開かれる。
「……浴衣レンタル?」
感熱紙に印字されたそれは、地方都市の住所が書かれた浴衣のレンタルショップのものだった。明細に記載された文字を見て、光彦は生唾を飲み込んだ。日付は、三年前の八月。コナンと哀が姿を消した頃のものだった。
「コナン君、これって……」
「光彦」
窓の外では秋風によって樹木がかさかさと葉を落としていく。季節の移り変わり、光彦達は知らず知らずのうちに何度もその岐路に立っていたのだろう。
コナンの硬い声が、天井の高いリビングに小さく響いた。
「おまえの知っている事を、話してくれないか?」
三年前の二人の失踪については駆け落ちだという噂がたっていた。幼い頃に遭遇した辛い事件よりも、子供心なりの失恋を経験した時よりも、二人の喪失は光彦の心に大きく穴を開けた。それは、コナンだけが戻ってきた今でも続いている。
コナンの強い眼差しを受けた光彦は、ゆっくりと言葉を探し始めた。
(2022.11.9)