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 哀が転校してきた日の昼休み、急にやって来た転校生の存在にざわついている教室から離れた光彦は、校内の売店へと向かった。ちょうどシャープペンシルの芯がなくなったので、教室を出るにはちょうどいい用事だった。
 試験の日程までまだ余裕があるからか、廊下に漂う雰囲気は秋の日差しと同じくらい優しく明るい。
 食堂の隣に併設された売店は、本屋の空気と食べ物が混ざったような匂いがする。昼休みだからかガラス扉の冷蔵庫の前では二人の男子がジュースを吟味していて、その横を通って文房具コーナーに歩くと、一人の女子生徒がノートを手に取っていた。
 肩までの緩いパーマがふわりと揺れている。今日転校してきたばかりとは思えないほど、堂々とした彼女の姿は凛々しく映った。

「あら、円谷君」

 ノートを手に持った灰原哀が光彦の名前を口に刻んだのは、ずいぶんと久しぶりだった。転校生だと紹介された今朝から今まで、光彦は哀と言葉を交わす機会がなかったのだ。
 哀が自分をきちんと記憶している事に安堵した光彦は、さりげなさを装ってシャープペンシルの芯を手に取る。いつも選んでいる太さと濃さ、選択へのこだわりは自分自身を保つ材料となる。

「灰原さん、久しぶりですね」

 安堵と同時に沸いた動揺を隠しながら光彦が言うと、哀は眉尻を下げるような表情を浮かべた。
 その後、買い物を終えた光彦は哀と並んで廊下を歩いた。記憶よりも彼女の目線が低く感じるのは、最後に会った三年前よりも身長差が開いたからなのだろう。

「円谷君は、どんなお話を聞いているの?」

 午後の授業が始まるまであと五分。じゅうぶんな日差しが差し込んだ廊下を、生徒達がありったけのエネルギーをまき散らしている。
 哀の質問の意図を飲み込んだ光彦は、三年前の警視庁での出来事を浮かべながら、ゆっくり口を開いた。

「灰原さんとコナン君が、駆け落ちをしたという話です」

 口から滑り出した言葉が、騒がしい廊下の上に落ちていく。秋も終盤に入っているというのに、皮膚の裏側がじりじり熱い。
 光彦の答えに、哀はふっと目を細めて笑った。

「嘘つきなのね」

 午後の授業で使う資料なのか、大量のプリントを手に持った若い教師とすれ違った。授業開始まであと三分。沸き上がったエネルギーは、それぞれの教室に収束されていく。
 光彦は売店で買ったシャープペンシルの芯が入ったプラスチックのケースを握りしめる。教室に入ると、窓際後方の席にいるコナンがクラスメイトと談笑していた。光彦の隣にいる哀には、目を向ける事もなかった。



 その日の放課後、珍しくコナンから声がかかった。

「光彦、一緒に帰ろうぜ」

 コナンの席の隣を見ると、哀はひとりで帰り支度をしているようだ。横目で一瞥をしながら、コナンと一緒に教室を出た。
 日没までまだ時間はあるはずなのに、十一月の空はどんよりと薄暗い。靴を履き替えて外に出ると、冷たい空気が頬を刺してきた。もう少ししたらマフラーが、そしてその先にはコートが必要になるのだろう。
 幼馴染だからと言って普段からコナンと一緒に過ごしているわけではない。こうして二人で帰路を辿るのは、ずいぶんと久しぶりの事だった。

「あ、あの……、急に転校生が来るなんて、びっくりですよね……」

 どうにか重たい沈黙を破ろうと、慌てて話題を振ると、コナンの眉がかすかに動いた。地雷だったかな、と光彦は思う。でも、どうしても知りたいと思ってしまった。

「それも、またコナン君と隣の席だなんて……」
「また?」

 ふっと笑ったコナンは、手に持った通学鞄を持ち返して、ちらりと光彦を見た。

「あの転校生と俺は、きっと知り合いだったんだろうな。それも、かなり親密な」

 二人が同時に姿を消した時、クラスの一部で噂が流れた。江戸川コナンが灰原哀を引き連れて家出をしたらしい。面白おかしくストーリーを描いていた生徒に対して、叱咤したのは教師だった。――二人はそれぞれの事情で転校しました、二人の為にも悪意のある噂を立てるのはやめましょう
 その声は正義感に駆られただけの薄っぺらい膜をもって、ぎりぎりと光彦の首を絞めつけるようだった。息がしづらくなったのは、学ランの襟のせいではなかったはずだ。
 その二か月後、コナンだけが米花町に帰ってきた。一部の記憶を失った状態で。



(2022.11.4)

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