今でも時々夢を見る。
志保は命じられた通り無我夢中で化合物を研究し、その化学式を組み立てて計算を重ねていく。パソコンにそれらを打ち込み、疲労が溜まっても弱音が許される環境ではなかった。何よりも姉を助けたい。姉と自由になりたい。その思いで一生懸命研究を続けていたのに。
視線を感じて後ろを振り返れば、人々が次々と倒れていく。どうして…? 言葉にならない声でつぶやくと、いつの間にか隣にいた銀髪を伸ばした黒ずくめの男が不敵に嗤う。
『おまえが殺した』
そこで初めて志保は気付くのだ。
自分が開発した薬は、毒薬だった。
はっと目を覚ます。背中には嫌な汗がべっとりと流れる。
何度この夢を見ても、それにうなされている間は夢とは気付けない。そして倒れていく人々の中には新一の姿もあるのだ。
志保は汗を拭って、ベッドから降りた。キッチンへ歩いて水を一口飲む。素足の裏がぞわぞわと気持ちが悪い。ワンルームの部屋には、ベッドと本棚代わりにしているカラーボックスがひとつ、テレビ、その中心に置いてあるテーブルが一つ。自分好みに簡潔にしてあるこの部屋がひどく寂しく感じるのはこんな夜だ。
カーテンを開けてもまだ空は暗い。時計を見たら午前四時だった。夜明けはどんどん遅くなるこの季節を少し苦手に思う。
志保はテレビ台の引き出しから便箋とペンを取り出し、テーブルに置いた。
阿笠博士様。慣れた文字を便箋の上側に書き並べる。
家を出ていくことの条件のひとつ、定期的に連絡をとること。その手段に志保は手紙を使った。急を要せばメールや電話を使うこともあるが、定期的な連絡というものにそれらを使うことに抵抗があったのも事実だ。
手紙には不思議な力を持つ。最初は慣れなかったけれど、書いていくうちにメールや電話では伝えられない思いを素直に伝えることが出来た。そして自分の中に眠る闇を少しだけ浄化していく気がした。
志保は最近の出来事を思う。自分の仕事の進捗、博士から受け取った手紙に書かれていた少年探偵団の活動についての返事、そして最近の新一の様子。
ペンを進めていくうちに、いつものように動悸がおさまってきた。もうすぐ夜が明ける。
志保は研究資料を持って研究所の親会社である製薬会社に赴いた。ジャケットのみでは肌寒い。ショールを羽織ってくれば良かったと思ったのは電車に乗るまでで、電車に乗ってしまうとその温度差に酔いそうになった。
製薬会社は都心の中心部にあり、そのビルの高さにさらに悪酔いする。
志保の属するチームが数年かけて開発した薬をヒトに投与するための打ち合わせをする。この後は医療機関にも資料を持っていき、医師や看護師などとの話し合いをしなければならない。
「宮野さん」
社内での打ち合わせが終わると、営業の男性社員が志保を呼んだ。先ほど挨拶を交わしたけれど、志保は彼の名前を覚えていない。胸元にあるネームプレートを見るほど興味もなかった。
「すみませんが、今車が全部出ていて。申し訳ないのですが、公共機関でご同行願えますか」
よく顔を見れば爽やかな雰囲気を持つ彼に、申し訳なさそうに謝られた。
「構わないです。最初からそのつもりだったので」
志保が答えると、彼は安心したように笑った。笑うと幼くなるところが新一と同じだと志保は思った。
アメリカで飛び級で博士号までとり医学を学んだ志保がなぜ製薬会社の下請け研究所で働いているのか、と時々聞かれることがある。志保はいつも曖昧にごまかす。自分でも明確な理由がない。ただまだ灰原哀だった頃にきちんと就職活動するには無理があったし、博士からのコネクションがあったのも理由のひとつだ。何より、今度こそ人を救う何かを作りたかったのかもしれない。
訪れた大学病院での仕事も終わり、地下鉄に乗ったのは夕方五時過ぎていた。
「宮野さんは東京生まれですか?」
帰社する営業マンは、疲れを見せない笑顔で志保に話題を振る。さすが営業職だと感心しながら志保は曖昧に答える。過去を思い返せば明るい話題などなく、語れることもない。
ようやく地下鉄が乗り換えの駅についた。この駅で志保は乗り換え、彼は会社へと戻る。ほっとしながらホームを歩いていた時、
「…宮野?」
同じホーム内に、新一がいた。