Letters 3-2

 解毒剤を服用して宮野志保に戻ったら阿笠邸を出る。これは以前から博士と幾度も話し合いをして決めた事だった。当然反対をした博士と妥協に妥協を重ねて、住所は知らせることと定期的に連絡をとることを受け入れたかわりに、志保は家を出ることに合わせて新一には自分の居場所を知らせないことを条件として差し出した。
 前者はともかくとして、後者については博士は首をかしげた。

「君が姿を消したら新一君は心配するはずじゃが」

 神妙につぶやく博士に志保は少し苛立ちを見せた。

「すぐに関係なくなるわ。心配されるほうが迷惑よ」

 辛辣な言葉に、博士は悲しそうに顔をゆがめ、志保はうつむいた。
 博士の言うとおり新一は心配し、それ故に怒り出すだろう。容易に想像出来て笑えた。でもそれでは困るのだ。彼は元に戻れば長い間想っていた幼馴染と一緒に過ごしていくのだ。新一の人生に宮野志保が関与すること自体が不自然で、あってはならないことだった。



 そのはずなのに、あれから六年経った今、こうして二人で飲むことが日常化していることに、志保自身驚いているのだ。
 渡した資料を一通り目を通した後、新一はパソコンを閉じて、近くの居酒屋に志保を連れてきた。以前にも何度か来たことのあるその居酒屋はこじんまりとしているがどのメニューもおいしくて、新一もよく仕事関係で来ている常連になっていた。だから急に来店しても気を利かせた店主がいつも個室に通してくれる。

「この前警部がさ…」

 日本酒を嗜みながら、新一は最近の仕事の話をする。志保は黙って耳を傾ける。新一の事件に対する話し方には以前のような抑揚がない。ただ事務的に淡々と事実のみを語るその口調は、推理をしている時と似ていて、機械的に感じる。何がそうさせたのか、探偵事務所を経営している新一自身の成長と呼べるのか、何かを欠落してしまったのか、話を聞きながら志保はぼんやりと考えて焼酎を口に含んだ。舌触りのよい独特な苦さが心地よい。

「宮野は最近どうなんだ?」

 以前は自分の話ばかりだった新一が、いつからかこのように志保にも近況を問うようになった。最初の数回は「変わりないわ」と答えていたが、そうすると新一が不貞腐れるので、志保は最近の出来事を考える。

「前に言った非臨床試験を通った薬品の治験が今度行われるわ」

 志保は自分が携わった薬品がいくつかの試験を通り、それが今度はヒトを対象に行われる試験まで進んだことを新一に報告する。新一は目を細めて、「よかったな」と微笑んだ。
 その視線はとても柔らかくて、以前自分に向けられなかったものだと志保は思う。

 一か月に三、四度のペースではあるがこうして会って、簡単ではあるが二人で食事をすることの意味は何だろうか。
 もう十代の子供ではない。少なからず新一が一種の好意を自分に向けてくれていることを志保は気付いていた。もしかしたら新一も志保の想いに気付いているのかもしれない。
 あれから新一は蘭の話をしない。そして他に恋愛沙汰を起こすこともなく、まるでそれ自体に興味を失ったように静かに志保の隣に新一はいる。
 一度だけ、志保から新一に訊ねたことがある。「私とばかり会っていないで、新しい恋人くらい作ったらどう?」 すると新一は眉間にしわを寄せ、「そういうのはしばらくいらない」と答えた。その言葉にもう何も言えなくなった。長年想っていた蘭との恋の終結に一番疲弊していたのは新一自身なのだと思い知らされた。


 食事を終えると深夜零時を回っていた。
 米花町の大通りで新一はタクシーを拾い、志保を乗せる。いつの間にかタクシーの運転手にその代金を払っていて、志保に断ることを許さないその姿勢はまさに紳士で、その慣れ方に呆れさえする。

「またな、宮野」

 タクシーを覗きこんで微笑む新一の表情は、他のライトで反射して眩しく映り、酒のせいもあってどきりとした。

「おやすみなさい」

 それを隠すように志保はいつもの表情を保って挨拶を返す。タクシーのドアが閉まり、発車されてようやくため息をついた。
 まるで恋人のような扱いに、罪悪感が胸をよぎる。目を閉じれば遠い昔によく見た蘭の笑顔が瞼の裏に映った。