Letters 1-7

 蘭の作ってくれた夕食はきっちり二人分あって、尚更罪悪感が頭をかすめた。それでも食欲は沸かず、新一は書斎の端に積まれた本を手に取った。
 例の手紙は本と本の間に挟まっていた。便箋は新一がそうした通り、白い封筒の中に入ったままだ。蘭はこれを見たのだろうか。だけど今日の蘭の様子からは普段と変わった様子をうかがえなかった。
 新一はゆっくりとそれらの本を本棚の元の場所に戻していく。中にはきっちり本棚に詰まっていた段もあり、両手で器用に入れなければ入らない本もあった。
 立ったままもう一度本棚を見渡す。

「灰原…」

 口に出して、ふとある名探偵を思い出した。灰原哀の名前の由来となった女探偵、コーデリア・グレイだ。その生みの親であるP・D・ジェイムズの本を目で探し、手に取った。
 ページをめくると紙が足元に落ちた。新一ははっと息を飲んだ。それは例の手紙と同じ封筒だったからだ。
 拾い上げ、中から便箋を取り出す。

  Don’t forget.

 ただ一言添えられた文字をしばらくぼんやりと眺めた。
 そうしている内に、彼女と過ごしたわずか半年の時間が走馬灯のように新一の脳内を駆け巡り、覚えのない胸の痛みに目と閉じると、涙が一粒床に落ちた。その出来事に新一はうろたえた。これまで涙を流した記憶など皆無に等しいからだ。喉を得体の知れない物で浸食されたように息が出来なくなり、ひたすら浅い呼吸を繰り返す。
 自分は彼女の何を見ていたのだろう。
 新一はただ元の身体に戻って元の生活に戻ることしか考えていなかった。その時間はなかったことにするべきだと勝手に決め付けて、振り返ることすらしなかった。
 だけど、彼女は違ったのだ。
 涙と共に湧き上がった息苦しさと共に生唾を飲み込み、奮い立たせるようにもう一度本棚を見上げる。哀の名前の由来となったもう一人の女探偵であるV・I・ウォーショースキーが出てくる本を探ったけれど、そちらからは何も出て来なかった。
 震える足をどうにか動かし、新一は工藤邸を飛び出した。すぐ隣にある阿笠邸のチャイムを鳴らし、飛び込んだ。

「博士!」

 出迎えた博士は、いつもにはない新一の剣幕に驚いたように目を丸くした。

「どうした。何事じゃ?」

 夜も深まった時間の隣人の来訪にも博士は迷惑そうな顔をしない。とりあえず落ち着くんじゃ、と新一をリビングのソファに促し、博士自身も向かいにある椅子に腰をかけた

「博士…。灰原を覚えているか?」

 新一の言葉に博士はもともと丸い目を一層丸くした後、怪訝な瞳で新一をまじまじと見た。

「…何を言っとるんじゃ。忘れるわけがないじゃろう」
「だよな。俺、ずっとおかしいと思っていたんだ」

 哀が出て行ったと告げた時、博士は妙に冷静だった。それは喪失感による一時的なものだと思ったが、その後も博士の様子は変わることなく、落ち込んでいる様子もなかった。博士にとって哀は娘同然に可愛い存在だったはずだ。

「博士、灰原の居場所を知っているんじゃないか?」

 まっすぐに博士を見て新一が言うと、博士は深くため息をついた。

「…何を言うのかと思えば」

 そしてその重そうな腰をゆっくりとあげて、博士は奥の自室へと入っていく。

「博士!」

 まだ話は終わっていない。新一も立ち上がって博士を追った。
 博士が怒るのも分かる。何を今更と思われても仕方ない。それでも新一はただ真実を知りたいのだ。彼女は何を思ってこの家を出て行ったのか。彼女はあの日々をどう思っているのか。
 博士は新一の声にも答えないまま部屋へと入っていった。新一は息を吐きながら、それでも博士を呼び続けてドアを叩いた。自分のやっていることは狂人じみていると思う。
 なぜ自分があの手紙にそこまで執着を見せるのか分からない。
 あの頃のように、過ぎ去った過去として受け止めればいいだけではないか。だけど彼女のたった一言で綴られた言葉を見て、そうするわけにはいかないと思ったのだ。その一言には彼女の思いが綴られていたはずだ。それだけは新一にも掴めた真実だった。
 ドアを叩く手を止め、新一はうつむく。博士にも呆れられてしまうくらいでは駄目だ。出直した方がいい。そう思った時だった。

「新一君」

 ドアが開き、博士が顔を覗かせた。その顔は困惑も怒りも表しておらず、少し優しい目つきで新一を見た。

「君の言う通りじゃよ。ワシが志保君を黙って出て行かせるわけがないじゃろう」

 視線を落とせば博士は段ボールを抱えている。

「何だよ、その箱」
「見れば分かる」

 その段ボールを抱えた博士が辛そうなので、新一がそれを受け取り、再びリビングに戻った。その箱はそんなに大きくない割に、ずしりと重かった。
 リビングの床にそっと段ボールを降ろし、開けてみる。中には先ほど見たばかりの白い封筒がいくつも入っていた。

 ―――阿笠博士様

 新一はひとつひとつの封筒を手にする。宛名には見覚えのある字体で博士の名前が書かれていて、そこには博士の住所も切手も消印も記されていた。
 と、いうことは…。新一は動悸を抑えて封筒をひっくり返す。

 ―――宮野志保

 新一宛のものと違うのは、そこには差出人の住所も書かれていたことだった。都内の米花町からほど遠くない、同じ沿線のその住所に眩暈がした。

「博士…」

 震える声でつぶやき、博士を見上げると、博士は微笑んだ。

「ワシが知らないわけないじゃろう。じゃが志保君には口止めされておってな」
「…じゃあなんで今になって俺にこれを教えてくれたんだ?」
「志保君は、君には全て忘れて元通りになって欲しいと願っていたんじゃ。それでワシも協力することにした。じゃが君は突然、見せたこともないような泣き顔でワシに会いに来た。教えないわけにはいかん」

 博士の言葉に新一は顔を赤くする。そういえばさっき自分は家で涙をこぼしたのだった。そのせいで妙に重たい目で、もう一度志保の住所を見る。
 彼女に会いに行かなければならないと思った。