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 毛利蘭と再会したのは、コナンが帝丹高校に入学してからすぐの事だった。
 一時的に毛利家に頼っていたが、いつまでも小五郎に甘えるわけにはいかない。入学式を機に再び工藤邸での生活を再開したものの、それは想像以上に心を蝕む日々だった。部屋のどこを覗いても、哀の残した気配が消えていない。キッチンで料理をする姿、テレビをBGMにリビングのソファで読書をする姿、寝室のベッドで見せた寝顔。
 しかしどんなに嘆いても、彼女は戻らない。これらは時間が解決するものだと信じ、まずは高校生活を満喫しようとした、春の終わりだった。

「コナン君…?」

 春休みの礼も兼ねて毛利探偵事務所に足を運んだ昼下がり。そこには懐かしい顔があった。

「……蘭」

 一瞬にして過去の彼女への暴言を思い出し、すぐさま視線を逸らして踵を返すと、

「コナン君!」

 張りつめたような声がコナンの背中に届き、コナンは恐る恐る振り返る。冷たい汗が背中を伝った。
 蘭はどこか悲しそうに、でも決して泣くまいとしていた。その気丈な表情は昔と変わらなかった。しかし、昔にはなかった存在が腕の中にはあった。見た覚えもない赤ん坊の姿だ。
 それが彼女にとってどんなものなのか、咄嗟に理解したコナンが今度こそ蘭の顔をじっと見ると、蘭はようやく緊張を解いたように微笑んだ。

「やっとこっちを向いてくれたね」
「…その子、蘭姉ちゃんの子?」

 久しぶりに紡いだ蘭への愛称は、とっくに声変わりを終えた今でも案外しっくりと馴染んだ。

「そう。桜っていうの」

 蘭の腕の中で、桜と名付けられた赤ん坊はピンク色のベビー服を着せられ、更に寒くないようにガーゼ地の布をかぶせられ、この世の愛情を全て手に入れたような安堵した表情ですやすやと眠っている。

「目元が蘭姉ちゃんに似ている」
「ええ? まだそんなの分からないでしょ」
「分かるよ。そして口元はあんまり似てないから、きっと旦那さん似なんだね」

 蘭に近付いたコナンが言うと、蘭はおかしそうに笑い、事務所内の来客用のソファーに座った。

「コナン君、お父さんに用事だった? ついさっき出て行ったのよ。私は取りに来るものがあっただけだから、もう行こうと思っていたんだけど」
「…うん。大した用じゃないから、大丈夫」

 学校がある平日はまだよかった。新しい教室に、新しい人間関係。どんなに退屈な授業が待っていても、それでもどうにか気を逸らす事ができた。だけど休日はどうしようもなかった。持て余した時間と慣れた空間は、容赦なく傷を抉る。

「コナン君、春休みの間、うちに住んでたんだってね」

 先ほどよりも低いトーンで発された言葉に、コナンは顔をあげた。

「おじさんに聞いたの?」
「うん」
「おじさん、何か言ってた?」
「何も言わないけれど…、でもなんとなく想像つくわ」

 言葉少なに、しかし決定的な証拠を掴んでいるような蘭のまっすぐな瞳にコナンは怯み、その場に立ちつくす。

 ――僕の事なんて何も知らないのに、知っているかのように言わないでよ。

 十歳の頃のコナンが悲鳴をあげる。蘭を好きだった。その気持ちを大切にしたくて、永遠にしたくて、でも叶わなかった。蘭を待たせていたのに自分は待てなかった。
 六年前の蘭は、二十歳だった蘭は傷ついたのだろうか。今の自分はあの頃の彼女だ。
 蘭はきっと自分を大切にしてくれていた。家族のように迎えてくれた。何よりも憧れていた空間を作ってくれた。それだけで幸せだったのに。

「…ごめんね、蘭姉ちゃん」

 コナンは眼鏡にそっと手をかけ、久しぶりに裸眼で彼女を見つめる。蘭は一瞬口元を歪めた後、首を横に振った。

「コナン君が他の人を好きになったからと言って、私から離れる理由にはならなかったわ」

 涙声にも聞こえる蘭の言葉に、そうだね、とコナンはつぶやく。

「あの頃の俺は子供だったんだ……」

 開いた窓から差し込む風が春の匂いを運んでくる。今日もいい天気だ。絶望を思わせるような雨は、まだいらない。
 蘭の腕の中の小さな呼吸が、時折リズムが小さく乱れ、命の儚さを知る。自分がこれまで見てきた景色を思う。命のやり取り、無下に失われたもの、自ら失わせてしまったもの。

「蘭姉ちゃん」

 自分の名前は江戸川コナンだ。他の誰でもない、ただ一人の自分。今ではもうそれを支えてくれる存在はないけれど、その事実は変わらない。この先永久に変わることはない。

「俺は探偵になるよ」

 眼鏡をかけ直し、コナンははっきりと言い放った。蘭のまっすぐなまなざしがコナンに向く。コナンの中にある真実を見据える。

「それが、コナン君の子供の頃からの夢だったの?」

 確信を得たような蘭の問いに、コナンは少し考え、首を横に振った。コナンの子供の頃の夢は違った。ただ真実を突き詰める事、元の身体に戻る事、蘭を守る事、哀の傍にいる事。それが全てだった。
 工藤新一と同じ道を進む事は嫌だと思っていた。でも結局、自分にできることは、自分が自分である為に必要な道は、これしかなかった。
 人生の道標を決断をした今でさえ脳裏には哀の姿がよぎる。しかし、そこにはもう彼女の笑顔は存在しない。