3.最大級にピアニッシモで
ぷつりと音を立てるようにして意識が覚醒した。そこに曖昧さなどはいっさいなく、目を覚ましたコナンは動揺を隠さないまま周りを見渡す。
いつもの枕、布団、部屋の空気は凍りつくように冷たい。窓から差し込む控えめな光が眠たい瞳を刺激し、しかしまだ起きる時間には早いと思う。
胃のあたりの重さを自覚したコナンは布団を被ったまま起きあがった。ひどい頭痛と胸やけ。つまり二日酔いだ。枕元に視線を向け、ようやく違和感の正体に辿りつく。
水の入ったペットボトルがそこに置いてあるが、コナンが買った覚えはない。そもそも昨晩の事を覚えていない。昨日と同じ服装のままである事が全てを物語っている。
警察関係者との飲み会に参加した後に少年探偵団の四人と一緒に飲み、それからどうしたんだったっけ? 痛む頭を抑えながら、とりあえずコナンはペットボトルの蓋を開けた。職業柄嗅覚を研ぎ澄ますが、ペットボトルそのものに問題はなさそうだ。どこでもよく見る、市販の水だった。
冷たい液体が食道をつたり、胃酸を薄める。コナンは頭を掻きながら、枕元に置いてあるスマートフォンを手に取った。表示される時間は午前六時半。
――江戸川君、大丈夫?
自分を覗きこむ瞳と透明な声が脳裏に蘇り、コナンは顔をしかめた。騒がしい居酒屋での出来事だった。そうだ、自分は酔ってテーブルに伏せっていた。それからどうにか会計をして、歩美と話をした。
――そんなに哀ちゃんが気になるなら、送ってもらえば?
他にも酔っ払いが多くいる、米花駅前の居酒屋が並んだ通り。哀の住む場所は米花町ではないというのに、コナンは哀を頼った。自分を見上げる緑がかった瞳、ウェーブがかった前髪、色素の薄い頬。何もかもが変わっていない。過去を彷彿させるような空気にさらに悪酔いしそうだった。
そこで記憶が途切れる。水を飲んでも胸やけは治まらず、コナンはスマートフォンを手放し、再び布団に潜り込んで目を閉じた。薄い膜の向こう側で、少しずつ光が強くなる。
「哀……」
久しぶりに彼女の名前を唇で噛み締める。慣れた音の響きに目頭が熱くなり、更に頭痛が増した。
――江戸川君、あなたに守れるものは多くあるわ
自分に託した彼女の最後の言葉。意識しているわけではなくても、記憶から離れることはない。悔しいが、仕事をしていて何度も彼女の言葉に救われた。彼女に会いたかった。
それと同じくらい、彼女の事が憎かった。
再び意識を覚醒させたのは目覚ましでセットしているアラーム音だった。毎日同じ時間に鳴る音に目を覚まし、スマートフォンで今日の予定を確認する。頭痛と吐き気は早朝に比べてましになったようだった。
寒さに震えながらベッドから出てリビングへと降りた。ソファーの上には昨日着たコートが皺にならないように置かれていた。酔っている自分がコートをこんな風に丁寧に扱うだろうか。そもそもその意識があれば、いつものクローゼットに戻すのではないだろうか。リビングの空気に対して再び違和感を覚える。
昨日、哀に会った後、自分はタクシーに乗ってどうにか帰って来たのではないかと思っていた。しかし、そうじゃないとしたら。
一つの答えが見えた気がして、コナンは慌ててシャワーを浴びて、身支度をした。髪の毛が乾ききっていないのも構わず、ソファーに置かれていたコートを羽織り家を飛び出て、すぐ隣の家へと駆ける。
「どうしたんじゃ、コナン君」
インターフォンを鳴らすとすぐに出てきた博士は、のん気に久しぶりじゃな、と笑う。コナンはそれに答えず、阿笠邸を見上げた。
「灰原は?」
「え?」
「灰原は、来てるか?」
朝の挨拶もなしに、突然訊ねたコナンに、博士は戸惑ったようだった。
「いや…、今日はそういう予定ではないと思うがのう…。どうしたんじゃ?」
博士の返答に、コナンはコートのポケットの中で手を握りしめる。
先ほどのリビングでの違和感。買った覚えのないペットボトルの水。昨日酔っていた自分は、哀に家まで送ってもらったのだろうか。そのあと彼女は無事に帰る事ができただろうか。憎く思う相手のはずなのに、気になって仕方がなかった。