テレビに大きく映し出されたフリップが、女子アナの綺麗な指先によってシールが剥がされて行く。
『江戸川コナンさんへの質問、第一問目! 尊敬する探偵は誰ですか?』
滑舌のよい高い声と共にコナンがアップに映し出された。
『シャーロックホームズです』
『ああ、コナンドイルの。江戸川さんのお名前と同じ作者さんですもんね』
『両親もファンで、僕に名前をつけてくれました』
以前なら鼻で笑えるくらいの白々しい嘘にも、今の哀には笑えない。
『現実にいらっしゃる探偵さんの中にはいらっしゃいますか?』
『そうですね…。高校生探偵だった服部平次さんなんかは尊敬というよりマブ達みたいなもので。あと、子供の頃に面倒を見てくれていた毛利小五郎さんにも、学ばせてもらうところがありましたね』
『身近に有名な名探偵の方が多くいらっしゃったんですね。では第二問目! 好きな女性のタイプは!?』
剥がされたフリップと共に、コナンが少々たじろいたのが分かった。
『え…、これ、答えないとだめですか』
『江戸川さんは全国の女性の人気者ですので』
『うーん……』
まるで難事件にぶつかった時のように顔をしかめたコナンが少し考え込み、そして意を決したように女子アナを見て、そして口を開き、――線を千切るような音と共に、画面に広がる世界に幕が閉じた。
リモコンを向けたまま、まるでピストルで人を撃った後の殺人者のように、布団を被った哀が肩で荒く呼吸を繰り返す。これ以上見ていられなかった。まだ時間は早いが、支度にとりかかる。スーツを着て、化粧をする。焦燥感を消すように。
就職する先は阿笠博士の紹介先でもある製薬会社の研究所だった。工場も隣接している為、東京から離れているが、条件としてはちょうどよかった。
朝早くホテルを出た為に、近くのカフェでたっぷり時間をつぶした後、研究所に向かった哀はたいそう歓迎された。
「阿笠さんから聞いていますよ、灰原さん。イギリスの高校、大学を飛び級で卒業されるほどの優秀な方をお預かりしてもいいものか」
「いえ。…お世話になります」
博士とは年に数回のペースではあるが、連絡をとっている。連絡とはいっても事務的なものだ。博士も気を遣っているのか余計な事は言わない。ただ一度、歩美達は元気かと訊ねたところ、嬉しそうに三人の近況を教えてくれた。彼らも当然自分と同じように成長して、高校を卒業してそれぞれの道を歩いているとの事だった。
仕事で使う白衣などを渡され、契約書にサインをし、給与の振込先などを確認するなどの事務的な手続きを一通り終えたのは、昼過ぎだった。長い道のりだったが、これからは一人で行ける。金銭的に誰かに頼らないと生きていけない子供の時間は終わった。
阿笠博士には感謝していた。子供の姿は思った以上に不自由で、だからこそ執着先を見つけてしまったのだ。でももう大丈夫だ、と哀は研究所を出ながら思った。もう誰にも依存しないで生きていける。いつか阿笠博士に恩返しだってできる。
研究所には社員寮も用意されていて、哀もそこに住む事になった。女性専用という事もあり、清潔感が漂っていて快適だ。そこでも手続きをし、泊まっていたホテルへと戻った。まだ荷物を置いたままだ。
通りすがりの営業マンがスマートフォンを片手に足早に哀とすれ違う。
「スマホ……」
工藤邸に置いて来たものをふと思い出し、それをかき消すように哀は近くの携帯ショップに入った。仕事をするのであれば連絡ツールは外せない。
営業スマイルを張りつけた女性店員の話をカウンターで聞きながら、最後に工藤邸を出た時の事が鮮明に浮かんだ。
卒業式までに、コナンに気付かれないように荷物をまとめていた。結局最後まで何も言えなかった。でもコナンだって何も訊かなかった。子供みたいな言い訳だとは分かっていても、あの頃はそれ以外の方法なんてなかった。きっとお互いに。
コナンの愛情の分かりやすさは幸せで恐怖だった。今ではもう、テレビに出るくらい有名な探偵になり、整った容姿で更に周囲を魅了し、誰かを守って幸せにしているだろうか。あの優しい笑顔を向けて、熱を持った指で誰かに触れているのだろうか。思い描いた未来だというのに、心が痛むのは自分の中に未練があるからだ。
この胸の痛みは、コナンに何も言わずに姿を消した事への罪の報いだ。