それは中学校入学式の日、真新しい制服の匂いと共に、コナンが哀の手を握って微笑んだ。入学式には阿笠博士も有希子も出席した。有希子はすぐにアメリカに帰らなければならず、博士にはこれから元太達と遊ぶのだと伝えた。それは嘘だった。博士への最後の嘘だったように思う。
実際入学式の後に遊ぼうと誘ってきた少年探偵団の三人をどうにか誤魔化し、二人してじゃれあうように手を繋いで走った。プリーツスカートからはみ出た生足もセーラー服の首元も春の冷たい風に晒されているのに、やけに胸の奥が熱かった。
好きだと告げられ、阿笠邸で一緒に暮らしてからもうすぐ二年が経つ。そして今日からコナンは工藤邸で暮らす。春休みの間、二人で工藤邸を掃除した。その時も核心には触れないように、コナンはずっと仮面を被ったような笑顔を向けていた。だけどその隠された熱情を、哀は読み取ってしまった。
阿笠邸の目の前を通り過ぎ、二人で玄関のドアの前に立った。コナンが学ランのポケットからコナンが鍵を取り出す。
「俺達、もう中学生なんだ」
声変わりのせいでかすれた声と共に、鍵がまわされドアが開く。哀の手を握るコナンの手が汗ばんでいた。いや、もしかしたら汗ばんでいるのは哀のほうかもしれない。
ドアが閉まるのと同時に、コナンが哀を抱きしめる。あまりの力強さにバランスを崩すと、コナンが哀を壁に押し付けるように更に力を込めた。
「哀」
いつの間にか大きくなっていた手の平が哀の髪の毛に触れる。人差し指が哀の頬を辿り、コナンは哀の顔を覗きこむ。海のように壮大で透明なブルーの瞳。今自分はそれに見つめられているのだ。
付き合い始めてから何度目か分からないキスを落とされる。でも今日のキスは、子供騙しのようなものとは違う。もっと奥深く、魂ごと奪うようなキスだった。
「…嫌?」
暗がりの中で心配そうに眉をひそめるコナンに、哀は笑う。
「私達、まだ靴も脱いでいないわ」
「そうだけど……」
哀の肩に額を押し付けるようにしてうつむくコナンの髪に触れる。自分のと同じシャンプーの香りが鼻をかすめた。
「嫌なわけないわ。私もあなたを好きなのよ」
哀がつぶやくと、コナンは顔をあげて泣きそうな顔をして笑い、再び哀に軽くキスを落とした。手を繋いだまま二人して縺れそうになる足で靴を脱ぎ、昨日掃除したばかりの階段を上って奥の部屋に辿りつく。工藤新一のものだった部屋。
奥にあるダブルベッドに押し倒され、コナンの手によってセーラー服が脱がされた。
哀はキスの合間にコナンの眼鏡を外す。その素顔は工藤新一に似ているようで、異なるもの。彼は江戸川コナンだった。彼に触れられ、全てを暴かれるような感覚に、ベッドの上で哀は身を震わす。大胆な事をしているくせに、肝心なタイミングで頬を赤く染めたコナンを、ぎゅっと抱きしめる。胸いっぱいに甘酸っぱく広がるこの感情、大声で泣きたくなるような、世界中に叫び出したくなるような気持ちをなんと呼べばいいのだろう。
広い背中に揺さぶられ、熱い体温に溶かされ、呼吸困難になりそうだ。この苦しみで窒息できるのなら、それでも幸せだと思った。
その時のコナンの表情をいつまで経っても忘れられない。あの感情を恋と呼んでいいものだったのか、今でも哀は迷う。
「哀ちゃん、酔った? 大丈夫?」
前の席から歩美が覗きこむように哀を見上げた。哀は慌てて首を横に振り、グラスを持ち直した。腕時計の示す時間は午後十一時をまわろうとしている。
「いいえ、大丈夫よ。ちょっとぼーっとしていただけ」
「それよりコナンのほうがやばいんじゃねーか?」
元太の声に横を見ると、いつの間にかコナンはテーブルにうつぶせるようにして目を閉じていた。
「…江戸川君? 大丈夫?」
思わず声をかけると、コナンはゆっくりと目を開き、頭をあげ、しばらくぼんやりと哀を見つめて、「ああ…」とため息をつくような返事をした。
「コナン君、そういえばここに来る前にも飲んでいたって言ってましたしね…。実はけっこう飲んだんじゃないですか?」
光彦の言葉に、コナンは自嘲するように笑い、テーブルに置かれていた水を飲んだ。それを合図に、五人で座敷横に置かれた靴を履き、会計を済ませて外に出る。
外の気温はさらに低くなり、哀は思わずコートのポケットに両手を突っ込んだ。
「灰原さん、今日はありがとうございました。久しぶりに会えて楽しかったです」
「今は東京に住んでるんだろ? またみんなで飲もーぜ」
どこまでも優しい光彦と元太に、哀はありがとう、とつぶやき、少し離れた場所で歩美の隣で具合悪そうに立っているコナンを横目に、次はあるのだろうかと考える。少年探偵団は自分にとっても温もりの通う場所で、それはイコールでコナンにとっても同じだった。
「哀ちゃん!」
コナンの隣に立つ歩美に呼ばれ、哀は顔を向ける。すると、パズルが当てはまるようにコナンと目が合ってしまった。
「…何?」
「哀ちゃん。ごめんけど、コナン君を送って行ってあげて? すごく酔っているみたいなの」
「え?」
哀が聞き返すのと同時に、歩美が哀の前まで歩いて来て、よろしくね、とつぶやく。どうして私が。そう言う間もなく、少年探偵団は挨拶を投げながらも駅前から去って行く。確かに彼らは米花町に住んでいるから電車に乗る必要はないかもしれないけれど、哀だってコナンがどこに住んでいるかなんて具体的には知らない。
哀はため息をつき、具合悪そうにしゃがみこんでいるコナンの前に立った。
「江戸川君、あなたはどこまで帰るの? 必要があればタクシーを拾うけれど」
「……米花町2丁目」
聞き覚えのある住所に、哀は首をかしげた。居酒屋が立ち並ぶ駅前、酔っぱらった学生やサラリーマンが哀とコナンの横を通り過ぎて行く。
「…あなた、確か都心のタワーマンションに住んでいなかったっけ?」
寒空の下で白い息を吐き出す哀を見上げたコナンが、眼鏡の奥側の瞳を一瞬まるくした後、喉元でくつくつと笑い声を立てながらゆらりと立ち上がった。途端に身長の高低が逆転する。
「俺を捨てたくせに、ずいぶんと詳しいんだな?」
悪意のある言い方に、哀は顔をしかめる。外灯からの逆光でコナンの表情は読み取れない。ただ先日と同じように、感情のないガラス玉に見つめられている事だけを理解した。熱の籠った、優しい瞳に包まれるような事はもう二度とありえない。
コナンは指先で眼鏡を整え直し、車道に顔を向ける。
「…今も米花町のあの家に住んでいるよ。マンションは仕事関係で使っているだけだ」
すぐ横を走る車のライトが、コナンの頬を白く照らす。
「おまえは、ちゃんと博士に会いに行ってるか?」
「…ええ。用のない休日は、できるだけ行ってるわ」
米花町に置いたままの、哀にとっての宝物。哀が素直に答えると、コナンは小さく笑い、エンジン音に掻き消されるくらいの声でつぶやいた。
「――俺も、おまえと家族になりたかった」
コナンが目を伏せた事によって、白い頬に睫毛の影ができる。もう子供のものではない表情、骨格、体つき。もし工藤新一がそのまま大人になっても、同じようにはならなかったのだろう。
家族、と哀は小さくつぶやき、昔のコナンを思い出す。初めて熱い肌に触れた日。今でも脳裏をよぎる。哀にとって何よりも幸せな時間だった。それでも、今も昔もコナンの願いを叶える事が哀にはできなかった。